弥生三月も半ばを過ぎてしまった。場所によっては、土筆も蕗の薹も早やくも長けている。一本あるだけのわが家の紅梅は満開、梅は五六分か。月ヶ瀬の梅は三分とか聞くと伊賀は寒いなと思ってしまう。今日でお水取りが終わる。そして、今日はホワイトデーである。私もお返しのクッキーを用意した。しかし、お返しを渡すのがなかなか難かしい。くれた人とくれない人が居るためにコソコソとせねばならない。しかし、そこに楽しさと面白さがあると言えよう。義理チョコとは言え貰うことは嬉しく、貰えば返す義理があるのだ。ああ、それにしても私の日々は平凡で変化はない。世間では県知事選・県会議員選が近付き、なにかと騒がしくなって来たようである。選挙となると、今まで全く音沙汰無のなかった人が突然訪ねてくれる。「ちょっとも顔見せんと、こんな事で来て申し訳ないです」と、よく解っているではないかと思ってしまう私である。そして、投票すると決めては居なくても、「解ってますよ。頑張ってや、当選したら何かとお世話なります」と言ってしまうのである。当選しても何も役に立ってくれないだろうと諦めながら。国政に携わる政治屋さんも品がなくなりつつある。国益なんて本当に考えておられるのだろうか。野党は与党の批判をすることが仕事か。新しい大臣をいじめることが嬉しいらしい。言葉尻、失言を探し、こことばかりに責め退陣を迫る。大臣だけに終わらず政務次官にまで。路チュを批判し、揚句には入院先での喫煙にまで普及してくるのである。まるで校則に違反した生徒のようだ。そして、それを採りあげるマスコミ、いちいち謝罪する議員、情けなくて笑って仕舞う。「恥を知れ」と小さな声で言いたいのだ。真から国を愁い国の為に命を懸ける真の政治家も沢山おられるのだろうに。
土芳しけんけんをして靴を履く
雨の日は月瀬の梅の話など
爺ふたり芭蕉と曽良の春野かな
雛の日の錦糸玉子や藍の皿
梅ほぐる樋の破れ洩る雨の音
なぜこんな所より出し春の水
雛菓子をつまみ語るやテロのこと
春の野や猫背を少し伸ばし出む
地虫出づ日の天井を見て病めり
山茱萸のひと枝触るる床ばしら
啓蟄や婆はなかなか意固地なる
啓蟄や紐のごと出るマヨネーズ
蕗のたう見つけるだけで帰りけり
がまぐちの口金錆びし霾曇り
料峭や病む師が鬼のかく乱と
岩海苔の空壜に挿すつくづくし
野梅咲き月の明るき雑木山
春雨の傘挿し上げて別れけり
朝すずめおどけし春の雪一寸
春雷や婆の頬杖はずれたる
風に日に雲に紅梅咲き初めむ
息一杯吐きて梅の香吸うてをり
春眠や海老寝の母の小さくて
春はあけぼの母は鼾を掻いてをり
これは私の独り言に過ぎない。もちろん俳句も独りごとのようなものである。間もなく彼岸、本格的な春の到来にまたまた気が緩みそうだ。春はあけぼの、春眠の母の寝息を聴いていてつくづく思う。春眠暁を覚えずと言われるが、母をぐっすり寝かしてやらずに、「何して、あれして、これして」とこき使う私、申し訳なくなる。今さっきのことが覚えられない母を、未だに頼りにしているのだ。我儘な私はこれ以上進まないで欲しいと祈らずにはおられない。最後に、前回書いた死体遺棄事件の続報に接しておこう。あまり話題にならないが、遺棄した母親の胃の中には何も入って居なかったとか、衰弱死させたわけで実に情けない。どんな理由があれ、わが住む市内に起こった事例に至極憤りを感じる私である。当事者よりもその周囲の人々に。