伊賀の奥

「伊賀の奥」は私の処女句集の名であり、「不治人」は私の仮名である。読んで判るだろうが、私はきわめて重度の障害者だ。そんな私の生きる糧にしているものが俳句である。伊賀の奥に隠遁してより三十二年が経とうとしている。不治の身になってより三十七年、なんと長い年月であろう。否それが、過ぎてしまえば凄く早く感じられるから不思議である。そんな私の存在をサイトとして誇示したい。
 
2009/03/13 18:40:32|その他
たんぽぽの絮
 今日もなんとなく日が経ってしました。われわれ身体障害者にとってデイサービスを受けることが社会参加では決してない。私は、床ずれ予防には身体を清潔にしていることが不可欠である。だから、デイサービスを受けるのは入浴が主たる目的である。とは言え、郷に入れば郷に………であり、年寄りさんとの話も無駄ではなく学ぶことは多い。しかし、認知症の年寄りさんとのコミニュケーションは誠に難しい。草はほおけると絮毛になって飛んでいく。人間は惚けると夜も昼もなく徘徊する。種を遠くへ飛ばすための草の絮とは大きな違いがあろう。しかしながら、認知症の人の心は草の絮のように自由に遠くへ飛んでいっているようでもある。おかしなことを言っているようだが、自由で楽しい世界があるようだ。風にのって飛ぶ蒲公英の絮毛(綿毛)を見ていてふとつまらないことを思ってしまった。認知症の人だけではなく、私も俳句作りを通して心は自由に旅をしているのである。草の絮になって遠くへ飛んで行きたい。草の絮と言えば秋のそれが多い。春では蒲公英の穂絮がその主である。明るい春の光を浴びて飛ぶ真っ白な絮毛に夢と思いを託したい。
 
ほほけては蒲公英の絮光りけり
蒲公英の絮の塊ころげをり
たんぽぽの絮毛をぽほと子が吹けり
この次の風に蒲公英絮放つ
たんぽぽの絮毛水面をすべりけり
たんぽぽの絮大屋根を越えにけり
蒲公英の絮の彼岸へ着きにけり
すずめ飛びたんぽぽの絮つれて飛ぶ
蒲公英の絮毛鴉の口に付く
青空へ見失ひたりたんぽぽの絮
はるか飛ぶたんぽぽの絮小さき夢
たんぽぽの絮のかなたに昼の月
 

 風が強すぎてもそんなに多くの蒲公英の絮は飛ばない。ちょうど良い風がくれば飛び立つ。続けて飛んだり、間をおいて飛んだりしている。遠くへまた遠くへ飛ぶのもあれば、すぐ先で地に落ちるものもある。








2009/03/12 9:37:48|その他
土筆

  急に春めいたかと思うと今日は弥生寒、残る寒さを痛感させられた。風が冷たく、雲の色も灰色を暗くしている。嶺は黄砂に霞んで見える。寒いと呟きながら散歩していると、土筆が随分伸びて、蕗の薹も大きくなっている。わが家の前に今までは屋敷田として稲作が行われていたが、五年前から梅、柿などの果樹が植えられた土地がある。そこには薺の花が咲き、土筆が林立していて見事であるのだ。三寸ほどの土筆が数万本と群がっているのだ。それはそれは異様とも思える光景であり、人にたとえたりして楽しんでじーと見ていた。肌色に煙るようであり、なにか熱のようなものが感じられ、匂いがしてくるようでもある。いったい何本ぐらい生えているのであろうか、子供のような気持になってきて仕方なかった。春だなと実感しながら、これだけあれば玉子とじ、お浸し、油いためなどにして食べたらいいのにと食い気に気持ちが傾く私である。だれがそんな面倒くさいことをしてくれよう。昨年も食べた覚えがある。そんなに美味しいと言えるものでもないが、これも春の味と思えば納得できて心が大いに和む。だが、摘んで来て料理すればよいというものではない。あの袴と言われる部分を取り除くのが実に面倒なのだ。日翳ると目立たないそれが、日が差すと一面土筆色になり明るく輝いてみえるのである。何か違う世界を連想させられる私であった。

 
 
 土筆群れ人肌いろに煙りたり
 幾万の土筆の中を蟻となり
 日が差せば肌いろ透くるつくしんぼ
 群がりし土筆の背くらべ見てゐたり
 田を出でて土筆の群れの畦走る
 林立す土筆に雨の脚見ゆる
 数万の土筆に日差す匂ひかな
 土筆伸ぶ雨の三日を経たる丈
 墓石のまはりにあまたつくづくし
 気の強きをんなの苦味土筆和
 土筆野を走り過ぎたりひと日照雨
 灰汁付きし土筆の袴取りし指
 この怒り解くるや土筆の群れを見て
 焼酎のあてに土筆のたまごとじ
 土筆見てゐて珠玉の一句欲しきかな
 
 

  作ればいいというものでもないが、俳句なんて無理に作ろうとすればできるものである。それが佳作か月並み句の違いであり、駄句すなわち月並み句ならいくら作っても捨てるだけだ。群がる土筆を見ていて思うこと、世に残せる一句が欲しいと。土筆の群れを見ていると心が落ち着くようである。何も競そうことがない、あの無欲さに惹かれる私である。昨年だったか、隣の子供たちが遊んでいたので、土筆を食べてみたいと話すとみんなで摘んで持ってきてくれたことがあった。嬉しかった。子供らの優しさが心に沁みた。土筆を見て今日作った句であるが、さあ一句でも残るだろうか。








2009/03/05 22:50:21|その他
啓蟄
 今日は啓蟄、さまざまな虫が穴から出てくる日である。今日は雉も見たし鶯も聞いた。いよいよ春が本番化して行く。世の中、何もいいことはないが、定額給付金の支給が決まりホット喜んでいる人が多いと思われる。収入の多い人も少ない人も貰える点に疑問を持つが、御神の決めたことと納得している低所得者の私である。年金受給者、年収130万ぐらいの者と年収1000万以上の者も全く同じだというのは不満であるが、その目的からの定額給付金だから不足を言わないでおこう。これで景気が回復することを願いながら、世の中を見ていこうと思っている。そんな世の中に、穴を出た虫たちはどんな印象を持つのだろうか。懸命に命を燃やしひたすら生きる虫たちにとって、この国の行く末など全く興味のないことと言えよう。
 
  穴を出し虫の溜息聞こえくる
   啓蟄の雀藁しべ奪ひあふ
   啓蟄のゆふべ風出て冷えつのる
   啓蟄や無駄毛恥毛の話など
   啓蟄のてんたう虫の背中輝る
   啓蟄の蚯蚓引き合ふ夕すずめ
   啓蟄や人見しりする子に泣かる
   啓蟄の畑に母居る安堵かな
 
 啓蟄、なかなか難しい言葉、俳句を始めてまず覚えた語である。今や、天気予報の際によく言われるようになり、誰もが知っている。虫の命に励まされて生きてきた私、啓蟄という日には、「いじけていないで、年やからと諦めないで前向きに生きよう」と己を励ますことにしているのである。







2009/03/02 8:51:47|その他
特別作品
 私の所属しているのは「山繭」という全国的な結社である。俳誌も月刊誌であり、年々充実している。その俳誌に今回、「冬麗」(とうれい)と題して、特別作品を掲載して頂いた。「山繭」誌は今年創刊三十周年を迎える。私の句歴も三十年を過ぎたわけである。そんな俳誌に特別な思いで「特別作品」を掲載してもらえた喜びは実に大きい。ここにきて、もう一度初心に返りたいと思った。今まで何度も何度も初心に返ろうと肝に銘じて来たのである。そして今回、今までになく思いを新たにし、心を改めて句作したのであった。冒険もした、挑戦もした。これが私の変化の契機になればと願っている。これらの十二句、日ごろ私が指導している俳句作法とは大分異なるが、こういう俳句もあるということである。しかし、基本、元は写生であり、これからも即物具象に徹してゆく努力をしてゆきたいと思う。たかが、地方で発刊さている俳句雑誌に作品か掲載されただけであるけど、全国的な総合俳句雑誌に大きな活字で作品が掲載されたのではないが何か嬉しくてならない。
自分の所属結社誌が届いても、毎号そう感動もないのだが、今月号は予期していなかったし、日頃厳しい師だけに無理と諦めていただけに非常に嬉しいのである。
 
 
                冬麗
 
  酔ひざめに聞くは蚯蚓か耳鳴りか
  亡き人立つ草の錦のひとところ
  草の絮飛ぶ日や母に叱られて 
  干し柿を抓みしうつけごころかな
  ひと隅に死が見えてくる花野かな
  この中のたれが逝くかと縁小春
  枯野人ムンクの叫びに似てゐたり
  窓越しの枯木見てをり飢えてをり  
  世に疎く浅く生きむと根深汁
  つぶれたる杭の頭や虎落笛
  不格好に生くるも良しとおでん酒 
  冬ざるるもののひとつに飯茶碗  
 
  これらの句を読んでの忌憚のない感想がほしい私である。俳句に関わっている人でなければ理解してもらえないけれど、俳句を読んだ感想を聞かしてもらうことは大変嬉しいことである。たとえそれが厳しい意見、批判で会っても。だが、何よりも嬉しいことは共感である。一人でもいい、一句でも感動してもらえたら有り難い。







2009/02/27 22:30:28|その他
猫の恋
 同病相哀れむではないが、月に一度集まって俳句の勉強をしている。障害があっても心は自由だと、それぞれに頑張って俳句を作ってくれている。指導する私の力量不足はご勘弁願うことにして、みんな個性を発揮した独自の句作りがある。随分長く続けて来られたと驚いている。今回は「猫の恋」が兼題であり、それぞれに楽しい句が寄せられた。
 
   月明り猫の恋路の行方かな      
   浮かれ猫橋より川を見てゐたり     
   鼻の皮むけて恋猫帰り来ぬ      
   浮かれ猫ゆくえしれずとなりにけり  
   避妊せし黒の御内議猫の恋      
   真夜中に不気味な声や猫の恋     
   窓と窓互ひに近し猫の恋        
   屋根裏に恋猫の鈴聞えをり      
   チーズケーキほどよく焼けし猫の恋   
   こつそりと部屋を出てゆく浮かれ猫  
   雨風に負けずに猫の恋激し      
   にらみ合ふどちらも引かず恋の猫   
   二色の恋猫の声夜の静寂       
   恋終へし影を連ねて猫戻る  
 
  「猫の恋」、今までどれだけ句作して来たことか。私は猫好き、猫しか今まで飼ったことがない。俳句には犬の恋はない。猫好きであって良かったと思うのだ。私の傍で今までに何匹の猫が生まれては捨てられ、飼われては死んでいったことか。近年、母が老いて捨てるのが辛くなり、猫三匹を避妊手術した。もうこれで猫は増えることはない。昨年末に一匹が死ぬ。今は二匹の猫が私のベッドの上で寝ている。そんな猫も恋の時期が来ても無頓着、見ていて可哀想になる。雄ではないか、「お前らも俺と同じやな」と慰め合っている。今までに雄猫も何匹か飼ったことがあるが、浮かれるとそれはそれは凄かった。雌にしろ雄にしろ飼っていると、猫の恋も身近にて嫌になるほど目にしたものであった。だが、気のせいかもしれないが最近あまり見かけなくなったように思える。猫を飼っている家の数も減ってきているのではないだろうか。そして、去勢、避妊術がなされることが多くなったようだ。人間社会の少子化現象、猫の社会にも普及してきたようだ。
 
   どら猫の恋遂げし貌洗ひをり
   月に沿ふゆふ星ふたつ猫の恋
   恋猫の声真似てみむつまらなさ
   月の出を弾み出てゆく恋の猫
   恋猫の炎のやうな声発す
   雨音の奥へ消えたりうかれ猫
   ベッドより風を見ている春の猫
   恋しらぬ猫の親子と籠りをり