伊賀の奥

「伊賀の奥」は私の処女句集の名であり、「不治人」は私の仮名である。読んで判るだろうが、私はきわめて重度の障害者だ。そんな私の生きる糧にしているものが俳句である。伊賀の奥に隠遁してより三十二年が経とうとしている。不治の身になってより三十七年、なんと長い年月であろう。否それが、過ぎてしまえば凄く早く感じられるから不思議である。そんな私の存在をサイトとして誇示したい。
 
2009/08/12 23:29:59|その他
生身魂
 
  盆が来てしまった。盆支度など何も出来ずにと情なくなる。盆の用意と言えば、今年は初盆の親戚が二軒ある。そこへ供えるために夕張メロンを注文しただけである。我が家のためにはボタ餅を買っただけだ。老いた母には盆の用意はもう無理であり、仏を祀ることも手薄になってしまった。御先祖も解ってくれるであろう。世の中も年々盆の行事は廃れてゆくのは寂しい限りである。盆が来ると私は、生身魂(いきみたま)という語をいつも思う。生身魂とは、「お盆は先祖や故人の霊を供養するだけでなく、生きている目上の者にも礼を尽すという考え方があり、「生盆】ともいう。盆やその前に両親や親方などにご馳走をしたり贈物をしたりすること。地方により風習が異なるが、一族の繁栄と健康を祝いそれにあやかろうということであろう。」と辞書に載っている。私も俳句を始めて知った言葉であり、この季語で句を作ってきた。 有名な句に『生身魂生くる大儀を洩らさるる 大橋 敦子』がある。お年寄りを大切にする、尊敬する気持ちは常でなければならないが、せめて盆ぐらいはそういう心で家族や子供は生仏を大事にしてほしい。しかし、現実には生身魂を盆の間ショートに送り出す家族がなんと多いことか。盆ぐらい一緒に居てやってほしいものである。廃れてゆく盆の習慣と共に、生身魂も死語化して、知らない人が多いのではないだろうか。
 
  唾かけて鎌砥ぐ爺や盆の道 
 
  盆来るとゆふべの風のきな臭し
 
  前山を弾み出でたり盆の月 
 
  盆の月光りは雲に吸はれたり 
 
  明るさに猫の喧嘩や盆の月 
 
  耳遠くなられて可愛い生身魂 
 
  お迎へが来ぬと口癖の生身魂 
 
  幼稚なる嘘をつくなり生身魂 
 
  生身魂生きるしんどさ言ひにけり 
 
  てらひなく戦争語る生身魂  
 
  顎髭に飯粒ひとつ生身魂 
 
  湯上りの嵩の低さよ生身魂 
 
  何するもえらしえらしと生身魂
 
  生身魂にまたしてしまふ口ごたへ
 
  両ひざに両手あてくる生身魂 
 
 
  生身魂について少し書いたけれど、さあ果たして自分はお袋を生仏として尊敬し大切にしているかと問われれば疑問だ。偉そうなことは言わない方が良いだろう。だが、「生身魂とか生仏」を知っているだけでもいいのでは、努めて母を労うことにしたい。盆の仏に供えるいろいろな食べ物が今となっては懐かしい。「盆三日仏と同じもの食めり 保」という句を思い出す。







2009/08/07 21:36:48|その他
きりぎりすと花さびた

 
 今日は立秋です。暦の上では秋ということですが、そんな感じがしませんね。最近よく更新すると自分でも思っています。なぜだろう。時間の余裕があるとか、ないとかいうのではありません。なぜか私にも解りません。日々何かありますが、元来、日記を公開するのには抵抗感がありますから日記風なものにはしたくありません。できれば、歳時記の感覚で読んで欲しいです。昔は土用半ばで秋の気配がすると言われました。ところが最近の異常気象では大暑も立秋もただのなんでもない一日に過ぎないようだ。みなさん、残暑お見舞い申し上げます。そう言うのも何となく変な気分、これからが本格的な暑さになるのではないか。そんな気持ちが湧いてきます。例年、もっとも暑いのが夏の高校野球の時期です。明日からその高校野球がはじまります。年々地球が暑く、温暖化と言われて久しいですが、そう大きな変化はみられません。虫なんかもちゃんと秋の気配を察知し鳴き始めました。土用半ばから毎年キリギリスが鳴き始めます。何日か前、わが部屋にキリギリスが宿泊しております。二、三日して台所へ移動しいたのですが、昨夜から帰ってきてまたわが部屋で鳴いています。昼も夜も雌を求めて鳴くその声、♪ギーリス、ギーリス、〜チョン♪、ときどきチョンと大きな溜息を吐くようで面白い。妻恋いにしてそれはあまり良い声ではありません。濁声の八百屋の親父が茄子を売るような声です。しかし、私には飽きない声、私に何か話しかけてくれるような気がします。雌の沢山居る外へ出してやりたいのであるが、どこかに隠れて見えない。鳴かないと心配になる。いつまでわが部屋にいてくれるのであろうかと思っていたが、今これを書いているとカーテンに止まっているのが見えた。母に頼んで暮色に染まった外へ出してもらった。「外で草間に沈み思いっきり鳴いて来いよ。美しい雌と思いっきり恋をして来い」と心中で呟いた。明日庭で鳴いているのを聞くと懐かしくなるでしょう。
 
秋立つや曇りから雨のち晴れて 
 
風の道ここと婆指す秋立つ日 
 
きりぎりす鳴かねば寂しと石を蹴る 
 
きりぎりす時折蟬の声を出す 
 
わが部屋に居候せりきりぎりす
 
きりぎりす鳴くや納戸の母呼んで 
 
きりぎりすテレビの音に鳴き出せり 
 
戸一枚隔てて激しきりぎりす
 
きりぎりすわが部屋に居て三晩鳴く
 
きりぎりす髭を気儘にふりにけり 
 
きりぎりすああスーチヨンと鳴き納む
 
わが庭の暮色に染まる花さびた
 
庭先に里山の気や花さびた
 
母はすぐ忘れしと言ふ花さびた
 
好きな人につれなくされし花さびた
 
そばに居てくれしが愛や花さびた
 
  私のベッドから庭の鉢植えの糊ウツギが咲いているのが見える。鳥が運んで来たもので、上手く鉢に植わっているのです。鉢の底から根が出ているらしく力強く咲いています。里山の気分が満喫できる糊ウツギ、別名はサビタの花と言います。俳句では「花さびた」とよく読まれております。 地味な花、しかし、里山の雰囲気にあふれた素朴さが私は好きである。きりぎりすがしきりに鳴く庭、さびたの咲く庭、たとえ雑草が生い茂っていても私の心を癒してくれます。平穏な日々、平凡な心、恙無き身体、周りの人々に厭われる自分を喜ぶ一日です。いろいろな気にそぐわぬ事がある日々ではあるけれど、さびたの花を見ていると、アホなことは気にしない、時代に反した思いは捨てようと思います。心豊かに生かされたい。晩酌に酔うているため、俳句は駄句ばかりになりました。







2009/08/03 22:54:08|その他
梅雨明け

 
 やっと今日梅雨が明けました。待ちに待った梅雨明けと言いたいのですが、暑くて今日はフウーフウー言っていました。暑いのは辛い、ジメジメした雨も嫌いと気儘な自分である。前回、六年前は残暑が厳しかったと書いたが、最近の異常気象からすれば、このまま秋になってしまうかもしれない。その方が私には有難いが。
 
   少女ゐて棘しろがねの夏薊
 
  ひとそばへ今通り過ぐ夏あざみ
 
  嗅いでみむへくそかづらの咲く辺り
 
  梅雨はまだ明けぬと転ぶ団子虫
 
  えんぴつの赤がよく減る土用かな
 
  花入りと風のやさしき早稲田かな
 
  涼気過ぐ夏の薊のほとりかな
 
  田の沖に白雲湧くや夏薊
 
  雨音の奥よりかすか遠花火
 
  柴折戸の開いてゐるなり黒揚羽
 
  赤錆びの門扉抜け来る黒揚羽
 
  武骨なる婆の手にのる花茗荷
 
  もの忘れかこつ母なり花茗荷
 
  空蟬の爪立ててをり水に落ち
 
  青柿の落つるや雨後の日が差して
 
  梅雨明けを燕群るるや電線に
 
  梅雨明けを日暮れ鴉とよろこべり
 
  待ちすぎて喜び薄る梅雨の明け
 
  梅雨明けと花火の写真見てゐたる
 
  八月は仏事の月である。施餓鬼、盆と田舎の付き合いは大変だ。もちろん私は出掛けられない。新盆の親戚へ私が参ると言えば、やめろとは言えないだろうが、一般の家はバリアフリーになっていない。お寺も同じである。迷惑になるだろうから遠慮させてもらい、老いたお袋が参ってくれるのだ。感謝することにしょう。母が居なければと思うと恐ろしい。今年の立秋は七日である。七日までに暑中見舞いを出さねばならない。八日からは残暑見舞になるのである。私のブロクを読んで下さる貴方、暑中お見舞い申し上げます。







2009/07/30 20:23:14|その他
六年前
 まだ梅雨が明けない。週間予報を見ると八月に入っても曇りの日が続くようである。八月に入っての梅雨明けは、平成15年が一番近い年とか。間違っておればお許し願いたい。平成15年と言えば私には忘れられないことがある。あのことが転機、私が少しは強くなれた年である。九月の三日に名古屋の中部労災病院に入院、床ずれの治療を試みたのであった。初めて母無しの入院生活、初めての体験に寂しくて何も出来ない自分を改めて知った。母の有難さが身にしみて解った。入院して二週間は何度も泣いたことを覚えている。そして、そんな時、私が常に心の支えにしていた人のことを今思い出す。十月の末に退院、その間Tシャツ一枚で過ごせるほど残暑が厳しかったことが忘れられない。今年の残暑はどうだろうか。
 
  走り穂のひとつに南吹く棚田 
 
  夕立の晴れて樋屋のブリキ輝る   
  
  炎天を過ぐる涼気の草間より  
 
  血を吐いてくちなは道に横たはる 
 
  炎天を戻り庇間ひ真くらがり 
 
  炎天に出て何か眼に沁みるなり  
 
  足裏まで真つ赤に赤子泣く酷暑 
  
  大股に歩くや老いし羽抜鶏 
 
  滴りの崖の窪みに碗ひとつ 
 
  沢蟹の爪振る崖の滴りに 
 
  首に紐結んでありし夏の服 
 
  藍浴衣着て胸苦しいといふをんな  
 
  麦酒飲み干したる缶を潰しけり 
 
  ラムネ抜く音に気分を晴らしたり 
 
  世に疎くなりて麦酒の泡が好き 
 
  酒過ぎて胃の腑の痛き暑気払ひ 
 
  藷焼酎火の国よりの贈り物 
 
  扇風機独り占めして叱らるる 
 
  水をいまもらひしばかりの釣忍  
 
  昼寝覚めここは何処と問ふ媼 
 
  担がれて深き反身の裸の子 
 
  胡坐組み端居の女煙草吸ふ
 
 先日、ぺんぺん草さんに更新を促した手前、私も更新せねばと心急かされました。七月も終わりです。梅雨がいつ明けようと明けまいと、私にはそう関係がない。残暑がどうのこうのというのもそう関係がないのだ。何を思うって、それは母が元気でいてくれることである。物忘れが極めて酷くなってゆく母である。施餓鬼、盆がやってくる。新盆が二軒ある今年、何も出来ない自分に代わって行ってくれるのは母である。生きている以上、仏の供養は勤めである。親戚、親族、そんな語が重くのしかかってくるが、私に出来ることは精一杯して行きたい。







2009/07/20 22:45:54|その他
海の日
 
 今日は海の日で祭日である。一日山を見て過ごした。雲を見て過ごした。蒸す一日で夕立があるような気がしていたが暮れるまでは降らなかった。今日は私の在所の祇園祭であり、産土神には立派な幟が梅雨雲を突いていた。今年の梅雨明けはいつになるのだろうか。海の日が過ぎても梅雨が明けないのも珍しい気がする。昨夜は夕立が激しくなかなかの雨量であった。海の日も平穏に暮れようとしている。明日は衆議院解散、国民に真意を問えというものであるが、その国民、政治には無頓着のようである。「そう言うお前はどうや」と問われると少し困る。自民党は負けてもいい、一度下野してもいいではないか。民主党の立派な人に政治を任してみてはどうだろう。私は党ではなく人で選びます。常にそうしてきました。民主に追い風、さあどうなるかな。
 
  夏萩や風にゆられて花まばら 
 
  ソーダ水飲んでうすらぐ自己嫌悪  
 
  向日葵や蔵の白壁明るくて 
 
  向日葵の五本のなべて俯けり 
 
  十本の向日葵に目の眩みたり 
 
  向日葵に覗かれてゐる朝餉かな 
 
  くちなはを叩いてゐたる烏猫 
 
  駒つなぎ友転ばせし思い出よ
 
  向日葵となりてその胸覗きたし
 
  雨雲の割れて鳴き出す青蛙  
 
  中年の男氷菓の匙舐めむ 
 
  日焼の子遊具のタイヤくぐりけり 
 
  嶺の紺濃きのうぜんの隙間かな 
 
  胸やけの激しき午後や凌霄花
 
  髪飾り浴衣を見せに来てくれし
 
  蝶むすび浴衣の柄に似合ふ帯
 
  雨激し浴衣着飾る娘子に
 
  海の日や嶺見て山を見て過ごす 
 
  海の日よ嶺に諍ふ雲と雲
 
  海の日の一日草を引く媼
 
 
  朝から電動ベッドのリモコンが故障、完全な故障ではなく接触によって作動したりしなかったり。しかし、ベッド上で起きるのは良いのだが、寝るボタンが利かず作動しない。どうしょう、このまま寝られなければと思うと不安になった。私の操作では動かせず、お袋の指の力でボタンを何度も強く押して、やっと動いたのだ。そして、訳が解らないが、午前中は不調だったのに、午後からは普通に戻り、故障が直ったのだ。とりあえずほっと安堵している。どうしたことか、機械のことは解らない。ベッド、エアコン、車いす、エアーマットなど周りの機械類が古くなってきたようだ。お袋の物忘れもひどくなって行く。ああ、私の身体の老齢化も進んで行く。若さもなくなって行く。母も己の身体も買い変えは出来ない。