今日は立秋です。暦の上では秋ということですが、そんな感じがしませんね。最近よく更新すると自分でも思っています。なぜだろう。時間の余裕があるとか、ないとかいうのではありません。なぜか私にも解りません。日々何かありますが、元来、日記を公開するのには抵抗感がありますから日記風なものにはしたくありません。できれば、歳時記の感覚で読んで欲しいです。昔は土用半ばで秋の気配がすると言われました。ところが最近の異常気象では大暑も立秋もただのなんでもない一日に過ぎないようだ。みなさん、残暑お見舞い申し上げます。そう言うのも何となく変な気分、これからが本格的な暑さになるのではないか。そんな気持ちが湧いてきます。例年、もっとも暑いのが夏の高校野球の時期です。明日からその高校野球がはじまります。年々地球が暑く、温暖化と言われて久しいですが、そう大きな変化はみられません。虫なんかもちゃんと秋の気配を察知し鳴き始めました。土用半ばから毎年キリギリスが鳴き始めます。何日か前、わが部屋にキリギリスが宿泊しております。二、三日して台所へ移動しいたのですが、昨夜から帰ってきてまたわが部屋で鳴いています。昼も夜も雌を求めて鳴くその声、♪ギーリス、ギーリス、〜チョン♪、ときどきチョンと大きな溜息を吐くようで面白い。妻恋いにしてそれはあまり良い声ではありません。濁声の八百屋の親父が茄子を売るような声です。しかし、私には飽きない声、私に何か話しかけてくれるような気がします。雌の沢山居る外へ出してやりたいのであるが、どこかに隠れて見えない。鳴かないと心配になる。いつまでわが部屋にいてくれるのであろうかと思っていたが、今これを書いているとカーテンに止まっているのが見えた。母に頼んで暮色に染まった外へ出してもらった。「外で草間に沈み思いっきり鳴いて来いよ。美しい雌と思いっきり恋をして来い」と心中で呟いた。明日庭で鳴いているのを聞くと懐かしくなるでしょう。
秋立つや曇りから雨のち晴れて
風の道ここと婆指す秋立つ日
きりぎりす鳴かねば寂しと石を蹴る
きりぎりす時折蟬の声を出す
わが部屋に居候せりきりぎりす
きりぎりす鳴くや納戸の母呼んで
きりぎりすテレビの音に鳴き出せり
戸一枚隔てて激しきりぎりす
きりぎりすわが部屋に居て三晩鳴く
きりぎりす髭を気儘にふりにけり
きりぎりすああスーチヨンと鳴き納む
わが庭の暮色に染まる花さびた
庭先に里山の気や花さびた
母はすぐ忘れしと言ふ花さびた
好きな人につれなくされし花さびた
そばに居てくれしが愛や花さびた
私のベッドから庭の鉢植えの糊ウツギが咲いているのが見える。鳥が運んで来たもので、上手く鉢に植わっているのです。鉢の底から根が出ているらしく力強く咲いています。里山の気分が満喫できる糊ウツギ、別名はサビタの花と言います。俳句では「花さびた」とよく読まれております。 地味な花、しかし、里山の雰囲気にあふれた素朴さが私は好きである。きりぎりすがしきりに鳴く庭、さびたの咲く庭、たとえ雑草が生い茂っていても私の心を癒してくれます。平穏な日々、平凡な心、恙無き身体、周りの人々に厭われる自分を喜ぶ一日です。いろいろな気にそぐわぬ事がある日々ではあるけれど、さびたの花を見ていると、アホなことは気にしない、時代に反した思いは捨てようと思います。心豊かに生かされたい。晩酌に酔うているため、俳句は駄句ばかりになりました。