ようやく春らしい天候となってきた。昨日今日と青空が眩しい日である。散歩に出かけるとあちこちに風の跡が残されていた。折れた木々や瓦の抜け落ちた屋根などが目に付いた。まるで台風の跡のようだ。我が家の屋根瓦も飛ばされ、その被害は大きい。昨日さっそく屋根屋に直してもらった。あの夜の風は尋常ではなかった。母と二人で居て、もし何か飛んできたら、硝子が割れたらなどと不安で眠れなかった。雨戸を閉めることもし辛い母であり、何も無理は頼めなかった。今日は昭和の日である。平成になり早くも二十二年、昭和も遠くなりにけりと言った感じだ。それだけ年老いて行く自分、それに増して老いて行く母であり、思えばなんともしがたい悲しさと空しさに苛まれる。そんな私に風はやはり冷たかった。
大正の母よ気丈に昭和の日
ふた昔経ちし昭和と思ふ日ぞ
昭和の日暮るるや満月弾み出て
望月の匂ふがごとき昭和の日
青空のままに昭和の日暮かな
世間では今日からゴールデンウィークに入る。私は昨年も同じことを書いたように思うが、「私は毎日がゴールデンウィークである」と。この思いはもう何年も変わらない。どこへも行けない者の負け惜しみに他ならないが、そんな気持ちになれただけでも良しとすべきである。GWが終われば「母の日」がやってくる。母の腰痛も少しは楽になったが、その分腰が深く曲がり動きにくくなってきた。母の日には毎年柘植の余野公園での「つじ祭」に付いて行ってもらうのであるが今年はどうだろう。母の日とて、贈り物も何の労いの言葉も感謝の気持ちをも表すことができない私である。次に掲載した拙い文章は、先日私たちの機関紙(重度障害者友の会)へ投稿したものである。恥ずかしくて実名ではなく不治人で書いた。未だ誰ひとりも読んだよと言ってくれる人は居ないし、何も期待はしていないが、これが私の常日頃の心条である。しかしながら、ついつい腹を立てて悪たれ口をついてしまうのである。呟きのようなもの、今更何をと笑われるだろう。今日もその機関紙が机の上にそっと置いてある。いつか母の眼に止まるだろう。
親不孝
今更何を言うと笑わないで下さい。私の親不幸は三十七年も続いています。不幸の量を知る計りはありませんが、それは相当な量であり、母にはなんと言って詫びれば良いか解りません。いくら詫びてもどうにもならないし、なんの償いにもならないと思うけれど、申し訳ないと謝罪し、今までの労苦に感謝の気持ちを伝えなければと思っています。世の中で私ほどの親不孝をしてきた者も珍しいと自分でも実感しています。その度合いが、母の腰の曲がり様なのです。曲がってしまった腰はもう元には戻りません。「年だから曲ってくるわさ」と母は諦めたように何気なく寂しそうに言いますが、あの腰をあんなに曲げてしまった張本人は私なのです。今日まで一日足りとも休むこと無く介護をしてくれたことが重荷となった。その親不孝の重みに耐えられずに深く大きく曲がってしまったのです。 母は、一ケ月前からまた酷い腰痛に悩まされました。四年ぐらい前にも腰が曲がる予兆として酷い腰痛に襲われ医者通いをしました。その時は腰が曲がってしまうと痛みが嘘のように無くなりました。今回も医者にかかっても一向に状態は思わしくなく、ひたすら痛みに耐えた母でした。動くたび私に聞かれないように声を殺して「あ〜痛い、痛い」と洩らすのを聞いている私、それこそ針の筵に座らされたようで辛かった。しかし、激痛に耐えながらも私の介護を続けてくれようとする母を動かさずにじっとさせてやれない自分に腹が立って仕方無く、「ごめんな、痛い目をさせてすまんな」と心の中で呟くことしかできません。頼むことを半分、三分の一にし、我慢しようと思いましたが、ついつい「痛いのに動かんと、じっとしていろ。何にもして貰わんでええわ」と声を荒げてしまう私でした。そして、そのしばらくあとにもうアレしてコレしてと母を動かしてしまうのでした。辛抱の足らない自分が情けなくなりました。そんな私に母は、「すまんな〜動かんと、堪忍して〜や。しばらく休んだらするから」と、本当に気丈であり根性がある母のことばに思わず涙が込みあげました一ケ月苦しみ続けた果てに痛みは大分和らぎました。その変わりに以前より一段と曲がり、背骨が尖って見えるようになりました。もうすぐ額が地につくほどです。もう決して無理はさせられませんが、これからもそんな母がまだまだ頼りの私であり、丸くなり嵩の減った姿を見る度に申し訳なさと罪の意識に苛まれます。感謝と労いの言葉、そして詫びる言葉が胸いっぱいに溜まっています。いつになったら面と向かって話せるのだろうか。