伊賀の奥

「伊賀の奥」は私の処女句集の名であり、「不治人」は私の仮名である。読んで判るだろうが、私はきわめて重度の障害者だ。そんな私の生きる糧にしているものが俳句である。伊賀の奥に隠遁してより三十二年が経とうとしている。不治の身になってより三十七年、なんと長い年月であろう。否それが、過ぎてしまえば凄く早く感じられるから不思議である。そんな私の存在をサイトとして誇示したい。
 
2010/07/25 22:37:20|その他
大土用
 暑中お見舞い申し上げます。まさに大土用、立秋までこの猛暑が続くのであろうか。わがブログを見る度に、いつまで梅雨末期やと自身に腹が立っていた。コメントをしてくれる人もこんなに何日も変わりなければ落胆させられるであろう。俳句に興味がある人には尚更である。俳句は先通りと言われており、季節より先を行くのが望ましいのに私は遅れてばかりで恥ずかしい。梅雨明けが昨年よりは早かったが、それからの猛暑には凄まじいものがある。連日の記録的な暑さには驚き放しである。熱中症で死亡のニュースが世の中を賑わせている。デイサービス利用者さん、冷房を好まないこの年代の人らも連日エアコンのお蔭で快適な日を過ごされている。一昨日は大暑、それに相応しく世の中体温より高い気温であった。 小生、散歩に行くことを躊躇して、エアコンの効いた部屋でのうのうと過ごしております。発汗神経の侵されている身には、暑くて汗を掻くことはありません。それで暑いと息苦しく体温が上昇してくるのだ。暑さには人一倍弱いと言える。そんな小生、無理をせず、得意な怠惰な日々を平穏に元気で過ごせて喜んでい。欲を言わないように、足ることを知るようにして暑さと戦っていきたい。
 
 けふ大暑踏みつけられし邪気の顔 
 
 いと易く死ぬといふ婆大暑かな 
 
 草芽吹く舗装路の罅大暑なり 
 
 病む親に夏痩せと嘘言ひしとか
 
 訳ありの夕張メロン届きけり 
 
 熱き茶が好きな齢や半土用 
 
 流る葉に乗れず大暑の水馬 
 
 けふ大暑雉鳩ほこり立てて飛ぶ 
 
 自堕落に過ごしてゐても大暑かな 
 
 婆の腰大暑に関はりなく曲がる 
 
 炎昼や動くものみな影つれて
 
 をとめ子にへくそかづらと答へたり 
 
 おいらん草揺るるや風の一寸あり 
 
 化粧して畑打つ婆や独活の花 
 
 怠惰なる一日も無し百日草 
 
 向日葵の影に赤子の顔のあり 
 
 向日葵を叩けば日差しの埃かな 
 
 ひまはりの小首を右に振りにけり 
 
 向日葵の一列に咲き群れて咲く 
 
 胸の内覗かれまいと夏痩女 
 
 にせ物の乳やと笑ふ夏痩女 
 
 まだ出ぬと覗きし母や花茗荷 
 
 花茗荷を好きなことさへ忘る母   
 
 いくら暑くても我慢しますが、母が痩せて来ていると実感するのが辛い。「食べよ、食べよ」とひつっこく言うのだが、「食べてるわさ、年取ったら痩せて来るわさ」と聞いてくれない。太って来るよりは良いかもしれないが、周りの人から言われるのが実に辛いのだ。そして、最近何よりも心に突き刺さる言葉が一つあった。素直な印象だと思うし、何気ない言葉だと思うが、「最近痩せて来たし認知症の顔つきになってきたな」と言われた。専門的にはそういう要素が見られるのであろうが、子としては、毎日顔を合わせているとそれは判らない。自分は未だに母を認知症と認めていないようだ。「いいかげんに認めな、そしてその対処をしなければ」と常に言われつづけている。しかし、こんなに腰が深く曲りながら、何かとよく忘れ、一寸動けばエライエライと言っている母が小生の介護をなんとかこなしてくれているのですよ。慣れているから出来ることとは言え凄いことと思わずにおられない。そんな母を認知症とのお墨付きは出せないのだ。周りの人々が認知症のレッテルを貼って対応していても、自分は母親として愛し、感謝し、にく口も言い、けんかもして生きて行きたい。まだまだ猛暑が続きそう。母には暑さに負けないでいて欲しい。







2010/07/14 23:29:27|その他
梅雨末期
 
 貧乏暇なしではないが、もう七月の半ばである。毎回同じことを嘆く私は、われながら情ないとつくづく思ってしまう。毎月のマンネリ化した原稿を書くのに追われて、気が付けば月の半ば。そして、後半がまたまた早く過ぎてしまうのである。梅雨はようやく先が見えて来たようで、各地で梅雨末期の集中豪雨が発生している。御蔭で伊賀は水の害を心配しなくてよいので実に有難い。ゲリラ豪雨という語も耳慣れしてきた。被害に遭われた土地の皆さんのことを思うと虚しくなる。それにしても梅雨のこのうっとおしさは、われわれ障がい者には身に堪える。いつ尻の傷が悪化、血が出ないか心配で空しくなる。
 先日の参議院選挙、何十年振りかに投票所へ出かけた。毎回郵便投票を行っている私がなぜ、と思われる方もおられるだろう。来ているはずの書類が出て来ず仕舞いで、投票用紙の請求ができなかったのだ。母の所為にはしないが、最近仕舞わすれが多い。自分がしっかりしていないからと諦め、久しぶりに投票に出かけるのも良いと思った。雨が降れば棄権と決めていた。それだけ関心がないと言う事になる。雨が降らないうちにと八時過ぎに出かけたが、ポツポツと降りだした。小雨の中を母と急ぐ、車いすは母を引っ張っているようだった。たまに歩く母は息を荒げていた。そんなに濡れずに無事投票を済ました。そんな思いでした投票だったが、その夜は選挙結果に落胆。自分の投票が無意味だと痛感した。今までの選挙においても私の場合は負ける候補に投票する確率が多かった。とにかく、不自由でも選挙権を行使した満足感に浸ることにした。
 
  大いなる鍔へらへらの夏帽子
 
  累代の墓に棲みつくなめくぢり
 
  竜馬より晋作好きや冷焼酎
 
  おうな出て猫出てくるや花南天
 
  白猫の手玉に取りし烏蛇
 
  沢風に葉の鳴る女竹男竹かな
 
  かたつむり片目潰れてゐたりけり
 
  忙しく鳴くからすゐて半夏生
 
  烏猫ラムネ鳴らせば近づけり
 
  雨雲の深き割れ目や青蛙 
 
  梅雨晴を梅雨明けといふ爺と婆 
 
  老い母の畑に群るる赤き紫蘇 
 
  くちびるに麦酒の泡の鳴りにけり 
 
  あふれたる麦酒の泡を鼻の先 
 
  咲き満ちて地にひとつ咲く凌霄花 
 
  もろこしの花ちらしたり風の筋 
 
  凌霄花落ちしひとつは天よりぞ 
 
  蠅叩持つて看護師仁王立ち 
 
  蠅たたき持つ看護師の目つきかな 
 
  血圧計抱へ看護師蠅叩く 
 
  国家安泰の短冊揺るる星祭り
 
  神ほとけ七夕さまに命乞ひ
 
  あと何日かで梅雨も明けるだろう。暑中見舞の葉書を買ってあるがまだ書いていない。梅雨が明ければ本格的な猛暑到来か。頚椎損傷の私には正念場、暑さに耐えて頑張らねばならない。母はエライエライと口癖のように言っている。これにはなかなか慣れっこになれない。聞く度に悲しくなる。自分の事は良しとして、猛暑に負けずに、夏バテしないでいて欲しいと祈りたい。  







2010/06/25 23:24:37|その他
螢火
 
  誕生日より早くも二十日以上が経ってしまった。六月も平穏に過ごすことができたことを感謝せねばならない。母の腰痛は依然治ることなく、「痛い痛い、どっこいしょ、よいしょ」と言いながら歩いている。そして、「ああ、えらい、えらい」と言いながらソファーに寝転ぶこが多くなった。何も言うまい。居てくれる事を喜ぼう。悲しくて空しくなるが不足は言うまい。一週間前になるか、朝見ると燕の巣が何者かに半分ほど壊されてしまった。親燕が夜明けとともに騒がしく鳴いていたかと思ったら、五匹育っていた子燕が消えていたのだ。蛇の仕業だろうか。日毎大きくなっていくのを楽しみにしていたのに、悔しくて仕方ない。何年振りかで燕がわが家の玄関に孵ったことを何かの吉兆とわずかでも希望を持っていたが、一時にして消えてしまった。可哀想なことだが諦めようと思った。崩れ落ちた巣が無残に残っている。 
  昨日、名古屋の友人が訪ねてくれた。彼とはもう六年ほどの付き合いで、ギターを持って歌ってくれた。聴くたびに上手くなっているし、声も良くなっていると素人の耳で感じられた。夜は螢を見に彼の彼女と三人で見に出かけた。梅雨晴間の夜、月も出て居て辺りが明るいし街燈も多い。川面の闇も薄く感じられ、風も少し冷たかったので螢の数も少なかった。それでも名古屋の客人は「螢、螢」と声を上げて喜んでいた。ああ、今日は満ち足りた一日と感謝する自分であったが、螢火の眀滅を見ていると無性に淋しくなった。ふと儚い螢の命の火、消えかかるその光りに自分自身を重ねてしまった。しかし、私は螢の短い命を精一杯燃やし恋をする螢に強く励まされた。どんなことがこの先にあろうとも、たとえ将来はこの闇のようであったとしても、月も星も照らしてくれることを思うことにした。螢のような恋をしたい。螢火のような夢を持とう。周りの人々に小さくてもいいから命の光で照らしたいと 思った。
 
 口あけて子燕に顔無くなれり 
 
 世を拗ねし子燕の口への字なり 
 
 舌打ちをすれば貌出す燕の子 
 
 母と子の家に子燕五羽生まる 
 
 子燕のこぼれんばかりの眼かな 
 
 雷光を掠めて飛べり親つばめ 
 
 雨音に子燕のこゑ消されたり 
 
 親燕わが表札を汚したり 
 
 居眠りをしてゐる昼の燕の子
 
 小柄なるヘルパーの大き夏帽子 
 
 いかる聞きさうかさうかと頷けり  
 
 油性ペンキュキュと鳴るや行々子 
 
 螢火の向かふところのありにけり   
 
 螢とぶ不意に速さを増しにけり  
 
 螢火のふたつ寄りては弾き合ふ
 
 螢火の明滅にわが息合はす 
 
 姫ぼたる部屋に放ちし隣の子 
 
 看護師の首の細さよ夏あざみ 
 
 絨毯にやすでの這うて梅雨の底 
 
 湯あがりの少女と会へり螢狩 
 
 夏痩せて胸乳乏しとかこちをり 
 
 糠雨にをしべの張りや金糸梅 
 
 そばへ過ぐ峠を来しと小鯵売 
 
 かたつむり殻を鳴らしてつるみたり 
 
 かたつむり殻赤らめて塀登る 
 
 かたつむり夕日に首をふりにけり
 
 螢火のひとつになりし刹那あり 
 
 螢狩嫁せしころ言ふ女ゐて 
 
 流されてばかりの螢ひとつゐて 
 
 もつれつつ草間へ沈む恋螢 
 
  梅雨はまだまだ続く、じめじめとした気分にならずに平凡を拠り所にして生きたい。今朝は四時に目が覚めてサッカーのデンマーク戦を見た。見ようと思っていなかったのに目が覚めたのはなぜか。梅雨の最も激しい頃を梅雨の底と言う。梅雨、紫陽花、蝸牛と言えばこの時期を代表する季語だが、最近かたつむりを見ることが少なくなった気がする。私だけかな。







2010/06/13 22:57:15|その他
梅雨入り
 
  誕生日から更新が出来ずに申し訳なく、読んでくれている方に悪いなと思っていました。開いてもらって全く変わりないときの落胆は想像でき、申し訳なく思います。逆の立場になれば、その思いが良く解ります。言い訳になりますが、誕生日に少し有頂天になっていますと、尻に傷ができました。神は試練を与えてくれたのですね。誕生日やといい気になっていると床ずれが出来るよ。自分の身体を考えなさい。神は戒めのための傷を付けてくれたのでした。少し油断すると傷になります。あれから何日、頑張って傷を治しました。一日で出来た傷が二週間しなければ治りません。それも完治ではないのです。無理は出来ませんが、やっとパソコンができるようになりました。パソコンが出来なきゃ何もできません。天候の悪い六月、二〜三日間真夏日があり「暑い暑い」と言いました。そして今日、昨年より十日遅れて伊賀は梅雨に入りました。止み間もなく一日中降っていました。まるで梅雨入りを意識しているように。母の腰は一向に良くなりません。もう希望を持つことは許されないのでしょうか、物忘れも酷くなります。それでいて頑固になって行きます。「痛い痛い、エライエライ」と言わねば動けません。そんな母がやはり私には頼りです。クルマいすに乗れば燕の巣を見上げておりましたが、まだ子燕の生まれている気配がしません。親燕が行ったり来たりしていますが、その行動が理解できません。この二週間で世の中変わりました。内閣が代わったことが大きな出来ごとです。それにしてもよく総理大臣が代わる日本です。政権がかわればとおもっていたが同じでした。なんとなく軽率な政治、重みのない国政と思わずにはおられません。政治への興味が全くなくなり、政治に無頓着になって久しい私です。パソコンを開けなければ俳句も作れず、怠惰に生きて行かねばなりません。言い訳のできうる怠惰ですが、淋しくて空しくて。梅雨の時期、じめじめとした日が続くだろう。この湿り気が陰部には禁物で、傷が悪くならないことに留意しなければなりません。
 
 花桐を仰ぐ童顔畑をんな 
 
 息吹けばでで虫角をちぢめたり 
 
 麦秋や手を振る女腋見せて 
 
 竹皮を脱ぎ散らしたり墓の口 
 
 花柚子や母の怒りのすぐ消えて 
 
 青田風門まで連れてもどりけり 
 
 梅雨寒や頓に弱りし耳と目と
 
 まむし草絡まり暗き岨のみち
 
 二の腕に赤き小痣や更衣
 
 考えてゐしが駈けだす烏の子
 
 もの忘れ得意な婆とかたつむり
 
 昼顔に風出て雨の雲過ぐる
 
 床ずれといふ怖きもの走り梅雨 
 
 またひとつ増えし床ずれ麦の秋 
 
 狛犬の鋭きまなこ梅雨寒し 
  
 梅雨寒や鹿除けの柵錆噴きて 
 
 水の上に石の上に竹皮脱げり 
 
 口軽きことを恥じるや三光鳥 
 
 緑陰やをんなの髪を解かしをり 
 
 口紅の濃きをんなゐる木下闇 
 
  梅雨にもいろいろな顔がある。今年の梅雨はどんな特徴をあらわしてくれるだろうか。興味をもって過ごしたい。散歩に出られることが少なくなるかもしれないが、かえって俳句が多くできるかもしれない。風も空気もじめじめとして気分も重くなるが、心は明るく乾いていたいと思う。







2010/05/29 22:44:40|その他
誕生日
 
  今日も冷え冷えとした気候である。体調が少しおかしいと昨夜から思っている。ベッドで起きると汗ばむのはやはり昨日の朝見つかった股間部の傷の所為なのだろうか。なんとなく重い気分の誕生日である。昨年のブログを開いてみると、生への感謝を記してあり、我ながら感心させられた。その当たり前の心になかなかなれないものであり、不足に思う心が表に出てしまうものだ。今更何が誕生日だと自分に言い聞かし、そっと己の心の奥で自祝しておこうと思ってしまう。誕生日だかと何も求める気がしない。ただ言えることは、大した余病も無く五十八回目の誕生日を家にて母と無事に迎えられたことに何よりも感謝せねばならないということだ。そう朝には思っていたところ、いやそうではなかった。沢山の人から祝福してもらえた一日だった。先ず母、そしてデイサービスのスタッフ、デイの利用者のお婆さんたち。メールでも何人か思いもかけぬ人から祝福して頂いた。そして毎年のこと、かつての職場の先輩三人が訪ねてくれた。それから予期せぬ人から花が届いた。とにかく、ここ何年もないサプライズに富んだ誕生日だった。有頂天になりたい気持を抑え、平常心を装いながら美味い焼酎を多めに飲んで心地良いうたた寝をした。周囲の人の温情に酔いも実に快いものであり、生きられる喜びを噛みしめた。
 
  芍薬の蕾ほぐるる誕生日 
 
  誕生日のそびらに鳴けりほととぎす 
 
  誕生日の酒よく利くよ初鰹 
 
  明け方にほととぎす飛ぶ誕生日 
 
  ほととぎす啼く満月の誕生日 
 
  いつになく青嶺真近き誕生日
 
  三光鳥ひとこゑ弾む誕生日 
 
  朴の花仰ぎ疲れし誕生日 
 
  芍薬のしべの奢りや誕生日
 
  いろんな人から誕生日を祝福してもらったが、それらの人の誕生日を私は知らない。これは問題であり、このままで良いのか悩んでしまう。なんとかして知らねばなるまい。今夜は満月である。誕生日が満月と言うのも稀であろう。もうこの先何年も先になるだろう。いやもうないのではないか。誕生日の俳句なんて一句も残る句は出来ない。感謝の情を句にすることの難しさを痛感させられる。