上野天神祭の時期が来ると伊賀はめっき肌寒くなる。しかし、この時期の寒さは人によって感じ方が異なり、どう言えばよいか悩む。晩秋の寒さにも、やや寒、うそ寒、肌寒、朝寒、夜寒、冷まじ、そぞろ寒などの語があり、その区別はなかなか難しい。冷まじ(すさまじ)は「さむざむしい、ひえびえする」の意で秋の季語になっている。凄まじいとは大分違うようだ。とにかく、私なんかは心が冷まじと使いたい。天神祭に一度も行ったことが無く、だんじり(山車)も鬼行列も実際に見たことがない。子供の頃にサーカスを見た記憶のみが残っているだけだ。三年も上野の高校に行っていながら、どうしてだろうと自分でも不思議になる。先日は障害者の親睦会に参加してきた。無理を言って母に付き添ってもらっての参加だったが母はどう思っていただろうか。私としては親孝行の真似事と思っている。何もしてもらわないが、いわゆる医療行為であるところの導尿(カテーテル使用)を一回してもらった。私にとっては重要なこと、飲めば小便が出るのである。母もその為に同行しているとの認識が強いようだ。自分の存在感を誇示してもらえれば気分もしっかりしてくれるであろう。
飛ぶよりも崩れ落ちたり蒲の絮
水引の撓ひて雨の強くなり
小鳥来る能登より干物届く日よ
小鳥来る日や婆の声空へ抜け
熟るるほど軽く見ゆるよ烏瓜
水澄むや谷に出口と入口と
花石蕗や沓脱石の青びかり
鹿の群れ風を起こして馳せにけり
すぐ怒る母老いしかな秋の雨
逢ひに来てくれねば逢へぬ秋の雨
食へるかと母の採り来し毒きのこ
蓼の花ふるはせ蟹の歩くらし
雨後の日に大きく撓ふ水引草
口呵呵とひらく通草を卓上に
風の出てやがて夕闇すすき原
草の穂の撓ひて続く山日和
木瓜の実や個人情報どうこうと
唐辛子尖のわづかに折れ曲がり
絨毯に母のこぼせる零余子かな
看取ること生きる力に菜虫取り
校庭の桜もみぢを拾ふ子よ
楽しんで来たプロ野球も、中日のクライマックスシリーズ勝利、わが巨人の不甲斐なさを目の当たりにして今季を終えた。本拠地ではないにしろ、敵の大将の胴上げをテレビで見るのは情けないものであった。日本シリーズは冷めた気分で観戦出来よう。冷めたと言えば先日、例年呼んでもらっている小学校へ俳句指導に行ってきた。常のごとく学校周辺を歩いて俳句を作る授業である。低学年なら先生の言うことも聞かずに遊んだり、走り回ったりする子がいる反面、「これは季語ですか」と問いに来る子、「こんな句を作った」と見せに来る子が多く子供らしさを感じ嬉しくなったものだ。ところが六年生となると、冷めたものであり、作った句を見せに来る子も少なく、おとなしくただ参加しているという感じを受けた。挨拶もあまりせず、会話も少なく、俳句への関心がないようである。子供らしさがなく、覇気がない感じがした。私への気遣いはどうでもよいが、肝心の俳句までが冷めているのは何より悲しい。感動させられる句、驚かされる句が全くなかった。これが現代の子供、期待する私が愚かなのであろう。