伊賀の奥

「伊賀の奥」は私の処女句集の名であり、「不治人」は私の仮名である。読んで判るだろうが、私はきわめて重度の障害者だ。そんな私の生きる糧にしているものが俳句である。伊賀の奥に隠遁してより三十二年が経とうとしている。不治の身になってより三十七年、なんと長い年月であろう。否それが、過ぎてしまえば凄く早く感じられるから不思議である。そんな私の存在をサイトとして誇示したい。
 
2011/05/22 17:05:29|その他
気丈強情

  気丈強情五月が早や終盤に入った。何となく落ち着けず、落ち込むことの多い五月、ただ過ぎるままに過ぎてしまった。母子して受けるデイサービスにも馴れて来たことぐらいが良い変化である。母の状態も回復しつつあると言いたいが、歳の所為からの疲労感は拭えないようである。気丈さはそう変わらないが、身がついて行かないらしい。「なんでこんなに弱くなってしまったんかな」と呟くことが度々である。母から強情、気丈が無くなれば駄目になってしまうだろう。しかし、気丈だけでは………とつくづく思う。わが町の「つつじ祭り」は15日であった。毎年は第二日曜の母の日に開催されており、ここ何年も母に付き添って行ってもらっていた。今年はヘルパーさんが付き添うことになったが、母も行きたいと言って付いて行った。陰に居るだけで歩くこともしなかったが、やはり疲れたのだろう。帰るなり嘔吐、下痢に悩まされ、その後2〜3日は吐き気、ムカツキに苦しむ母であった。顔も痩せ覇気が無く随分老いた気がして辛かった。デイの利用者と比べて何も変わらないし、母より高齢の人の方が元気に見える。親だからしっかりしていて欲しいと思う心を捨てきれずにいる自分が情けない。
 
  緋のつつじ燃やして人の熱気かな 
 
  写されし母の腰伸ぶつつじ山
 
  山つつじ百年を経し紅薄し 
 
  背の高く色褪せてをり山つつじ 
 
  つつじ野の陰に授乳のをんなかな 
 
  屈む子の腰見えてゐる薄暑かな 
 
  朝のパン焦がせし母や麦の秋 
 
  えんぴつをなめる婆ゐて麦の秋 
 
  病む母に若葉の風のやや強め 
 
  母が粥あたためてをり青葉闇 
 
  アイリスや母がその名を三度聞く 
 
  気弱なる母の一面白あやめ 
 
  あやめ咲く花びらに風見えてをり 
 
  ほととぎす聞くゆとり無き母と子よ
 
  強情な母粥食める若葉どき
 
  蜜柑咲く癒える兆しの母の背に
 
  ああえらと呟く母や遠郭公 
 
  年頭に「行雲流水」の日々を願っては来たがそうは世の中うまく行かないものだ。何かと自分に出来ない事が山積みで困ってしまう。今年、第二句集上梓の準備を少し始めたが、母の入院で途切れてしまった。介護を受けるための申請書類、いろいろな更新手続きなどの書類を記すことも出来ない。周りの人々の助けに頼るしかない。身近にデイサービス事業が行われており助かっている。親子で同じ施設でサービスを受けることも珍しくないが、まだそんなに多くないだろう。母が利用者の中に居るというのも恥ずかしいことだ。自分だけでも厄介をかけねばならないのに、母までと思うと誠に申し訳ない。とにかく、母が機嫌よくデイを受け、傍に居てくれるだけを喜び感謝することにしたい。二人で居ると日に何度も口論、何度怒らせてしまうだろうか。「もう死んで来るわ」と、いとも易く言う母、日に何度死んだら気が済むのだろう。だが、言ったことも怒ったこともすぐ忘れるから有難い。そんな母に何かと言い聞かそうとする己の愚かさを今日も感じて悲しい。結局、母はいつまでも気丈強情でなければならない。愚かでつまらない更新になってしまった。







2011/05/01 12:39:49|その他
早や五月
  先月の四日に母が入院、二十一日に退院、その間私は兄弟、周りの人々の助けで乗り切ることができた。母が帰ってくれれば誰にも泊まってもらわなくてもよくホッとした。今年の桜はどうだったか虚ろであり、しっかり見なかった。なんとなく落ち込み、環境の違いで体調も狂ってしまった。「母が居ないから……、気が小さいのやなあ」と笑われたりした。母が退院しても今までの様なことは何もしてもらえない。それどころか腰が曲がっている所為で傷もまだ少し治らず、自分のこともおぼつかない。それを見ているのが今までになく苦しくて悲しい私である。医師より「歳の所為だから回復の 見込みなし」とはっきり言われた。そんなこととは何も知らず、自分は出来ると思っている。「今までしてきたお前の世話、慣れているから出来るわさ」と口癖のように言う。大分認知も進んでいるのだろうと思わざるを得ない。母は介護する方で、介護されることには慣れていないのだ。自分の現状を全く受け入れられない。いくら言い聞かしても無理、忘れることも甚だしく、そしてまた、すぐ怒りだす。こんな母と二人でデイサービスのお世話になっている。そんな私の日々も桜から若葉の季節に、春惜しむ頃になってしまった。その間、俳句も全く作っていない、車いすで散歩することもほとんどない。生活のパターンが変わってしまった。我慢すること、辛抱することが多くなり、心が縮こまってしまっているようだ。今回の母の入院にて私は何を悟っただろうか。それは、私は何も出来ないのだ。母にどれだけ頼っていたかと言うことに尽きる。今に始まったことではないが、つくづく身に応えた。重い物を持ってはならない。腹圧をかけてはならないということであるが、それすら他人事のように言う母、「そんなこと聞いてへん、もう治ってるわ」と。これからも、こんな母と一緒にヘルパーさん、デイサービスの皆さんのお世話になりながら在宅に居られることに感謝して生きたい。何よりも一緒に居てくれる母に感謝して生きていきたい。
 
  さくら二分母を見舞ひの道すがら
 
  母癒えよ桜刻々咲きすすむ 
 
  花冷えや母を探して猫の鳴く 
 
  入院の母よ寂しいか花の夜 
 
  見舞ひ来し人忘る母さくら時  
 
  母訪へば日を忘れをり目借どき
 
  母退院大根白菜緋の菜咲き
 
  退院の母の目うつろ亀鳴けり/ 
 
  退院の母よ伏せたる葱咲くよ
 
  母の試歩牡丹ざくらの匂ふ辺へ
 
  試歩の母に白藤の房三つ四つ 
 
  痩せし母もの忘れ酷し四月尽  
 
  環境が、境遇が変われば体調が崩れ自分の弱さを痛感した。そして、生甲斐であるはずの俳句が一つも作れないのであった。俳句なんて何も私を支えてくれなかったと思いたくなるが、そうじゃない私の精神が乏しいのである。このブログを覗いてくれている方に、心配をおかけしたことをお詫びしたい。これからは、これ以上母の認知症がすすまないよう努力し、どこまで行けるか解らないが今の在宅生活を続けたい。親戚縁者への配慮、親戚からの援助についての認識を改めたいと思っている。







2011/04/05 22:19:11|その他
弥生寒
  母が入院した。四月四日は記念すべき日、私にとって大きな試練が始まった日である。四月になってもまだ寒く、霜の降るような今朝の寒さであった。今朝になり母は私の排泄の処置をちゃんと済まし、洗濯物を干して入院していった。これには参りました。気丈な母を見た思いがしました。昨日までは「えらいえらい」と、息苦しく寝ていることの多い母でした。そんな母が入院して明日4月5日に手術を受けます。簡単な手術と聞いていましたが、全身麻酔、開腹手術と聞かされ愕然としております。手術が無事済むことと、一日も速い快復を祈りたいです。 母が入院と決めて、次の短文を書きました。自分の迷う心をごまかすような文章で恥ずかしくなります。しかし、これが私の試練の序の口と認識しています。
    
     愚感 
 悟りについてこんな話がある。『Kさんが高校三年生のとき、看護師になろうか、なるまいか、と迷った。なぜ迷ったかというと、「人間が人間を愛するということはどういうことなのか」 それがわからなかったからだ。わからないままで看護師になっても仕方がないのではないかと思った。そんなある日、ある養護施設を訪ね、そこでひとつの事件に出会った。機能訓練室に入ると、五十歳を越したかと思われる看護師が、足の不自由な子に歩行訓練をさせていた。ところが、この子がなかなか歩かないで看護師をてこずらせる、一歩出せたのにつぎの足を出そうとしない、なんとしても言うことをきかないのだ。そのうちその子は何を思ったか、近くにあった積木を取って看護師に投げつけると、看護師の額が切れてまっ赤な血が流れた。その子は、こわくなって逃げようとして、瞬間二、三歩あるいたというのだ。するとその看護師は駆け寄って、「よかったね、歩けたね」と言って腕の中に抱きしめたそうである。これを見ていたKさんは、この時「あの看護師のようになろう」と決心し、迷わずその道をとったというのである』と言うのだ。 お釈迦さまは明けの明星を見てお悟りを開かれた。霊雲和尚は桃の花をみて悟りを開いた。香厳和尚は掃除をしているときに瓦のかけらが青竹にあたった音を聞いて悟りを開いた。芭蕉は蛙が古池に飛び込む音を聞いて悟りを開いた。悟りは突然に開けるものらしい。私は日頃の平穏の中にあって、もし母を頼りに出来なくなったときにはどうするか、日々迷い悩み続けている。そうなった時のことを想定し、施設入所を体験しておかなければならないとも思っていた。しかし、「そんないつとも解らないことに悩んでも仕方ない。なるようになるさ」と言う周囲の人も多い。「なるようになるさ」と思うのも一つの悟りである。そんな私に突然母の入院という試練の時が来た。二週間程度の入院で済むものの私の身の振り方が問題になり、施設入所、ショートステイが考えられた。しかし、周囲の人や親戚の人が、「短期間のこと、施設入所なんて考えるな。安心していていい」と言ってくれ自宅に居られる道を選択することが出来たのである。私には守ってくれ、世話してくれる人が居てくれることを改めて思い嬉しく、何より感謝して生きたいと思った。一変した時だけの悟りであっては、結局悟りの錯覚にすぎないかもしれないが、私はこの期間を修業と思い懸命に生きたい。母の病が大事でなく済みそうなのが何よりの救いである。さあ、この機会に私は何をどう悟れるだろうか。  
 
 日々の俳句作りもままならず、私なりに不安で落ち込んでいる。当然にして俳句は駄句ばかりで恥ずかしい。
 
 倒木の泥をこぼして芽を吹けり 
 
 茎立つと母入院を決めにけり 
 
 春暁や動悸止まずに目の覚めて  
 
 悲しくて三色菫見てゐたり 
 
 谷底の風底の猩々袴かな 
 
 入院の母に嘘言ふり万愚節 
 
 入院の準備の母や燕くる
 
 さくら貝ひとつ置かれし違ひ棚
 
 山笑ふ婆の穿きたるスニーカー
 
 宵の酒過ごすや土筆の卵とぢ
 
 つくねんと入院待つ母土筆摘む
 
 チユーリップの様な唇三姉妹
 
 畝立てるほど陽炎の濃くなりぬ
 
 養生と歩き過ぎたり万愚節
 
 花だより聞こえ来る頃母入院 
 
 老い母の入院の日の弥生寒  
 
 燕来てゐると言うのに母入院  
 
 麻酔から醒めるのに少し時間がかかり心配したけれど、無事に済みホット安堵している。快復するまでに時間がかかりそうであり、年も年だから、もう重たい物は持てないだろうとの医師の説明だったとか。もちろん私の介護は無理だと言われた。辛い話であるが年からして当然のことと思う。ただ一日も早く退院して私の傍に居てくれるようになって欲しいと祈る。入院の前日、母が作ってくれた土筆の卵とじが実に美味かった。







2011/03/19 23:22:49|その他
春彼岸
  東日本大震災より一週間が経ち、その未曾有の被害と死者、行方不明者の多大さに心が痛む。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。そして、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りいたします。罹災者の心中を思えば食もあまり美味くないし、晩酌の焼酎も味気ない気がしてならない。そして、決して他人事ではない、明日は我が身と思わずにはおられない。我が地方も東海沖地震がいつ起こってもおかしくないし、1845年、166年前には伊賀大地震が起こっているから、もうそろそろだ。今回の東北地方大地震と津波の脅威には身の毛がよだつ思いがした。テレビで見る大津波、まるで映画を見ているような気がしたものである。行方不明者を捜し歩く人、避難場でおにぎりを涙ながらに頬張る人、映像の様々な修羅場を見ては自分の今の幸せに感謝したい。いろいろと自分の生活に不満をもち愚痴を言っている己を恥じずにはおられない。
 
  大地震の陸前いわき鳥帰る
 
  罹災者の涙や春の雪しきり 
 
  大地震の一週間後なり燕くる 
 
  うめ紅梅ことごとく散り地震のあと 
 
  みちのくの地震を話して野に遊ぶ 
 
  被災地に小雪舞ふ日よつばめくる 
 
  大地震の空をはるかに鳥帰る
 
  春寒や地震学者の白き髭
 
  みちのくの地震なほつづく弥生晴
 
  母の入院決めてひた降る涅槃雪
 
  母病んで食細りけり彼岸餅
 
  朝に雪一日ちらつく彼岸入り 
 
  すかんぽをつつく鴉の澱み声 
 
  たんぽぽの地に張り付いて風の谷 
 
  罹災地にふる春雪の重さかな 
 
  罹災者はおにぎりひとつ入り彼岸 
 
 みちのくは余震相次ぐ鳥曇り  
 
  しかし、そんな平穏な私の生活に異変が勃発した。大したことではなく、これぐらいのことで済んで良かったと思うことにしたものの、やはり、どうすべきか悩み迷った。先日、診察を受けた母が即入院、手術しなければ治らないと言われたのである。十日から二週間の入院が必要、難しい病気ではなく手術は簡単だと言われた。さあ、母が頼りの私の身の振り方をいかにすべきか、即施設入所か、周囲の人とよく相談して決め、母の入院の日を四月に決めた。今の福祉では私のような極めて重度の頚椎損傷者の自宅での介護は無理と言えよう。昼間はデイサービスを受けられるが夜間独りで居ることが無理であるようだ。今回、親戚の人の温情によって難局を乗り切ることに決めた。周囲の人が「短期間やし、施設入所しなくていい、安心しろ」と言ってくれたのだ。施設入所を回避することが出来、感謝の気持ちで一杯であるが、たまらなく不安で心細くてならない。折しも、彼岸に入った今、亡き祖父母、父に母の快復、物忘れ(認知症)が進行しないことを念じたい。私と母のご加護をご先祖にお願いしたい。







2011/02/27 23:19:07|その他
二月逝く

 明日は二月尽である。逃げる月と思いながら迎えた二月であったが、その逃げ足の速さには恐れいってしまう。今更過ぎた日を惜しんでも詮無い事と思いながら愚痴を言ってしまう所は、いつになっても成長しない私である。恙なく平穏に生きられたことに、母が息災で私を看護してくれたことに何をさておいても感謝しなければならない。その母にまたひとつ悪いところが増えて辛そうである。ヨイショとイタイの二語を言う回数が日毎増えてゆき、怒りぽくもなっているのが辛い。 私はどこへ外出することもなく過ごしてきた。毎日デイサービスのお世話になり床ずれの不安からも解消されて来たことは有難い。頼りの母に優しい言葉をかけながら、日々の苦労をねぎらいながら心穏やかに生きたいと願う反面、気に入らないとついつい腹を立て、苛立ってしまう。その揚句、もの言いが荒く母をボロカスに言って怒らせてしまうのだ。解っているけれど止まらない愚かな奴である。六十歳になる人間としては最低、来年は耳順であることを肝に銘じる二月尽である。
 
  梅咲いて朝の日差しの機嫌よし 
 
  午後よりは白梅のいろ深くなり 
 
  まだ風にそむく構への梅二輪 
 
  天曇りうすらひの透きとほりけり 
 
  恋猫に夕満月の弾み出む 
 
  ペツトボトル倒して行けりうかれ猫 
 
  通ひ猫凍て雪に腹擦つて行く 
 
  きさらぎの雀目もとのはつきりと 
 
  二ン月の桜に少年凭れをり 
 
  二ン月の判に息吹きかけてをり 
 
  草引きが好きな婆なり水温む 
 
  紅梅に風止んで雨飛びにけり 
 
  白梅を見て紅梅に近づけり  
 
  盆梅にかぶさりて香を嗅いでをり 
 
  大地震の記事の上なり蕗のたう  
 
  外つ国の地震の悲惨や梅散らす
 
  耳順にて母が頼りや春寒し
 
  料峭やこころに刺さる風の尖
 
  日々の俳句作りも停滞気味、月並み句しか作れないジレンマに陥っている。駄句を並べるのに抵抗感が強い。遅々としている春の動きの所為にしても仕方ないが、梅の句ばかりになり風情乏しい如月となってしまった。行雲流水には程遠い日々に嫌気がして悲しくなる。