伊賀の奥

「伊賀の奥」は私の処女句集の名であり、「不治人」は私の仮名である。読んで判るだろうが、私はきわめて重度の障害者だ。そんな私の生きる糧にしているものが俳句である。伊賀の奥に隠遁してより三十二年が経とうとしている。不治の身になってより三十七年、なんと長い年月であろう。否それが、過ぎてしまえば凄く早く感じられるから不思議である。そんな私の存在をサイトとして誇示したい。
 
2012/05/30 19:00:08|その他
誕生日
   五十代よさようなら。六十代とではその響きも捉えられ方も随分違うように思う。六十は六十路(むそじ)、杖者(じょうしゃ)、耳順(じじゅん)と言われる。還暦と満六十歳の誕生日は無関係ではあるが、誕生日を迎えて本当に還暦の気分に浸る私である。いろんな花の遅速を感じるも、この芍薬は私の誕生日には必ず開いてくれる。しかし、なんとなく気が重い誕生日であり、じゃがいもの花を見てぼーとしていた。今更誕生日がどうのこうのと言う気はないし、六十歳をはしゃぐ気にはなれない。六十歳なんか嬉しくないと拗ねるような私であったが、焼酎を提げて訪ねてくれる人には素直に感謝して今の心境を話した。デイサービスの老人たち、スタッフは素直におめでとうと祝ってくれた。何も不足はないはず、ここまで生きられて感謝の他になにもない。周囲の人々のお蔭、母のお蔭と改めて感謝の念を強くしなければと思ひ直した。数人からのメールも嬉しく、突然訪ねてくれる人も居て、当所の思いとは違って誕生日気分に浸る一日となった。多くの人からお祝いの言葉を頂き私には、思ってくれている人が居ると思った。ここまで生きられた感慨を噛みしめる一日になった。今日生まれた私、また一歳から年を重ねて行きたいと思う。今年、小規模多機能型の事業所として歩み出した「しらふじの里」と共に生きて行けたら有難い。先ずは被介護保険者になれる六十五歳まで元気で生きたい。あと五年、なんとんか母には息災で居て欲しい。その後は、あと何年生かされるかは解らないが、将来の安定も一応確約されたと思っている。

 

  じやがいもの花を見てゐる誕生日

 

  芍薬の芯に鼻寄す誕生日

 

  老人と生くるしあはせ誕生日

 

  今年また母は気弱に遠郭公 

 

  芥子に風散歩の老いに日の光 

 

  明け方の雨の匂ひの白あやめ 

 

  湯あみして朝より薔薇の匂ひけり 

 

  野のあやめ離れし風の行方かな 

 

  降り出して濃く深くなりかきつばた 

 

  誕生日しばらく五月の風浴びて 

 

  じやがいもの花好きになる耳順かな 

 

  芍薬の開き切ったる五十代 

 

 老人と語るよろこび麦の秋  

 

 誕生日雹降りさうな雲の出て 

 

 車いす手を垂れてゐる誕生日 

 

 誕生日二度の雷雨の過ぎにけり 

 

  異常な気候であり、ようやくサツキが咲きはじめた。つつじの遅れは少しであったが、サツキは二週間以上遅れているようだ。伊賀にはまだ降らないが、雷雨とともに雹が降るといった気象現象に驚かされる昨今、落雷の被害も話題になっている。辰年は荒れるのか、これから梅雨入りの時期になるが、今年の梅雨、暑さなど予測は難しい。どんな気象になっても私の日常は大きく左右されないだろう。母が元気で、気丈に居てくれれば何も言うことはない。周りの人は優しく私は幸せ者である。







2012/05/13 20:21:21|その他
母の日

  若葉から青葉へ、伊賀の山々は今が最も美しく目に優しい季節である。日々見る嶺、晴れた日はぐーんと近づいてくるように見える。しかし、ここ数日は冷めたい風が吹き、暖房を付けねばならなかった。田植寒、青葉寒であり、五月初めの薄暑の日と比べると、季節が後戻りしているようだ。母の日は、市の「つつじ祭」と毎年重なる。昨年までは母に付いて行ってもらっていたが、今年は母がデイサービスを受けることにした。「しらふじの里」は土曜日に泊りの人が居れば日曜日もデイサービスを稼働せねばならない。母は日曜日もデイを受けられるのだ。料金も相当な負担になるが、私は安心である。母は畑の草も引きたいだろうし、私に付いて行きたいだろうが我慢してもらうことに。私はこれも一つの親孝行だとひとり勝手に思っている。「しらふじの里」は小規模多機能型となり一か月半、やはり泊りに対応した夜勤勤務の可能な人の不足が問題であるらしく、過度の負担が今後なんらかの歪みをもたらさないかと一人心配している。
 
 白牡丹崩れる刻の風絶へて 
 
 八十八夜鮎の形の菓子もらふ 
 
 白藤のゆれ散らしたる日の光り 
 
 卓上に緋のアネモネと炒りたまご
 
 窓に貼り布巾を干すや春の暮
 
 老人のここはたまり場若葉晴れ 
 
 頬骨の高き女と牡丹見る 
 
 婆はみな耳遠きかなみどりの日 
 
 両の手に掬うて牡丹覗き込む 
 
 けふの嶺あをあをとして余花白し 
 
 水引いて走る田びとや山帰来
 
 竹の箕と箒と崩れ緋牡丹と
 
 風に揺る子の前髪や白あやめ
 
 いつぽんの道一匹の大毛虫  
 
 芍薬の香に覚めてより喉渇く 
 
 赤錆びの門扉に凭れ青嶺見む
 
 ほととぎす土匂はせて畦削る
 
 躑躅濃し女の紅の少し濃し
 
 白つつじ芯の辺りの萌葱色
 
 母の日の母を残してつつじ野へ
 
 俎板を買ひしヘルパーもみじ祭
 
 母のため地の茶を買ふや母の日に
 
 つつじ祭師と酒を呑むうれしさよ
 
 母のことたれかれ問へり母の日に  
 
 昨日の寒さに比べ今日はいい天気であり、つつじ祭の人出も多かったようだ。母を連れてくれば良かったかなと少し思った。なぜなら、今年の俳句の兼題は、「躑躅」と「母の日」であり、私も母の日の句を作りたかった。さあ、どんな母の日の句が投句されたかと楽しみだ。人出の多い割には投句する人が少なかった気がしてならない。人々は買い物に懸命で俳句などには興味ない様子、それが当たり前かなと淋しくなった。多くの人に会うことが出来、俳句仲間にも会えて充実したひと時を過ごすことが出来た。今日は母の日、母には何もしてやれなかったし、感謝のことば一つかけられなかったけれど、草餅など食べるものは買って来た。それから、昨日は近くの雑貨屋で服を一着買って渡した。「母の日のプレゼントやで、少し派手に思える大きな柄やけど、今はこんなもんや」と言って渡した。母には感謝している。心より有難うと言いたい。でも、恥ずかしくて面と向かっては言えない。言ったとしても母はすぐ忘れるだろう。私を忘れなければ有難い、「貴男は誰ですか」と言う、そんな日が来ないことを祈りたい。







2012/04/15 23:48:04|その他
さくらさくら

伊賀の桜は七八分だろうか。実際に花を見に行っていないので解らない。今日も怠惰に過ごしてしまいました。桜を見たい気もそんなに強くないしなんとなく気力が薄れているようです。五日に小規模多機能型介護事業所「しらふじの里」の開所式が済みました。新聞記者の取材などに応えて来てああーやれやれホッとしています。昨夜は三人のショートがあり今日もデイサービスが行われています。母と私は休みでゆっくりしているが四月から始めての体験にスタッフさんらは大いに戸惑っています。日曜日も勤めてくれておりなかなか大変で夜勤の出来るスタッフが居なくて困っておられます。なかなか勤務表が作れないようです。昨夜泊まった人は満百歳のおばあさん。四月五日が誕生日でめでたく百歳を迎えられました。私は何も出来ないけれど俳句など作ってお祝いをしました。「しらふじの里」が泊まれるようになり百歳の本人は別にして介護されている家族さんが少しは喜んでくれていると思っています。地域の人々に喜んで貰えれば私は満足です。この百歳は母とひと回り違います。母と話をしているのを見て居ると母よりも記憶がしっかりしているようです。ひとそれぞれですが私がどんにな努力をしても悲しいけれどあと12年も母に生きてもらえるとは考えられません。そんな母は忘れることは見事で呆れてしまうしかないです。それでも体は元気で長生きして欲しいです。腹を立てても詮無い事ですは。頼りにしてますよお母さん。
 
  百歳と今年の桜待ちにけり
 
 年寄りと桜のたより待つ館 
 
 木の香る祝ぎの床なり初ざくら 
 
 百歳に花満ちて月満ちにけり
 
 百歳の声の弾めり花の雨 
 
 百歳の唄聞いてをり花の昼 
 
 百歳に恋のはなしやさくら時 
 
 さくらさくら百歳の唄のどかなり 
 
 春よ春百の婆との昼餉かな 
 
 花吹雪浴びて動悸のをさまらず 
 
 何をしに来たかとをんな春の昼 
 
 春ゆふべ好きな一語にありがたう 
 
 人妻のしろきうなじや春の暮 
 
 ひと妻の唇うつくしき春の宵 
 
 ふと綾子思へばつばめつばめ飛ぶ
 
 チユーリツプ拗ねて女の口尖る  
 
 耳打ちに来し桜東風耳順になり 
 
 飲食に手間かけてをり桜咲く  
 
 花冷えや石ひとつ抜け野面積 
 
 ていねいにちり箱洗ふ桜どき
 
 咲き初めて桜に力みなくなれり 
 
 手を入れてみたし桜の奥処 
 
 鳩すずめ鵯も番ひやさくら時 
 
 生きることに疲れしごとき花疲れ 
 
 地を滑る落花に影の生まれたり 
 
  俳句は決して褒められません。先日も師に叱咤されました。今回は百歳のお婆さんに魅せられて桜と取り合わせて作ってみました。私の住む在所は150戸ですが満百歳は稀です。初めての快挙ではないでしょうか。もっともっと生きて下さい。そしてわが母よ。俺の言うことも聞いて安心してくれよ。母の為にも良かれと無い金を使い果たしてこの事業を社協さんに託しました。さあーどうなることか。しかし私は思います。周囲の人々が私の情を理解し協力してくれるに違いないと信じております。これを読んでくれるあなたの励ましをお待ちしています。







2012/03/31 22:46:13|その他
桜待つ
  三月尽の日は寒い雨の日でした。今年はいつまでも寒く桜の便りも遠い気がします。梅は満開の伊賀ですが、桜の蕾はまだほぐれていないようです。新居の生活も一か月が過ぎ、すっかり慣れましたが、ベッドの向きが不満です。外が見えないのは苦痛で近いうちに変えてもらう予定です。昨日よりプロ野球が開幕、今年こそはと言う原ジャイアンツ、開幕二連敗とは情けない。やってみなけりゃ解らないと初めからは言えないけれど、実に腹立たしい。しかし、巨人ファンは御人好しが多いから、それでもわが巨人軍は不滅だと今後に期待するのでしょう。正直私も巨人の優勝を今年も信じてテレビ観戦するのです。四月から「しらふじの里」では小規模多機能型居宅介護事業が実施されます。私はオーナーとして一角に住まわせてもらうだけです。しかし、いろいろな事が目に見えるし聞こえて来ます。そして、現場の声というものはなかなか上層部には届かないものらしいです。いろいろな問題を聞いていると将来が不安になります。軌道に乗るまでは大変だろうと推測、私には何も力がないことが無念でならないです。
 
 身繕ふ番ひすずめや春みぞれ
 
 膝小僧可愛い女やチューリップ 
 
 青饅やひと日をけぶる檪山 
 
 請求書幾枚とどき春うらら 
 
 唄聞こえ姥捨て山の笑ひけり 
 
 朝焼けの雲やはらかし春の鵙 
 
 畑隅の穴覗きをり春の鵙 
 
 沈丁花大粒の雨降ってをり 
 
 初燕低く低くなほ低く飛ぶ 
 
 猫を抱きものの芽数ふ嫗かな 
 
 かがと無き靴履いてをり山笑ふ 
 
 風の崖仰ぎ猩々袴見む 
 
 鳥除けと猿除けからむ春子榾 
 
 よく怒る母となりけり木の芽どき 
 
 種芋のひとつに遊ぶ子犬かな 
 
 まだ硬き燠のやうなる牡丹の芽 
 
 桜待つやうに年寄りの待つ館 
 
 このあたり大きく折れし春の川 
 
 天空に風鳴ってをり鼓草 
 
 陶たぬきの足元に一つ名草の芽 
 
 ほぐれんとして雨弾くもの芽かな 
 
 細き雨やがて太るや茎立菜 
 
 花明りして降りだすや花馬酔木
 
 煮るつもり母が土筆のひと握り  
 
  桜の開花は平年でも遅くなる伊賀、今年は大分遅れるだろうと思われる。待つ心が募るほど、咲いたときの喜びは大きく花も美しいだろうと思う。母の日々も変わらずに安定している。これ以上進まずに居て欲しいと思う毎日です。同じことばかり言うのにも慣れた私、呆れて笑っているしかないようです。しかし、時には「貸したと言っても私の家や、何が文句あるんや。お前より先にこの家に来てるんや」と怒りながら何かしょうとする。先日の夕方も土筆を一掴み摘んで来ては袴を取って美しくしてあった。煮てくれようと摘んで来たのだろうと思うと申し訳なく悲しくなります。そんな母と仲良くケンカしながらこのまま少しでも長く暮らしていきたいと願っています。何も欲も不足もありません。耳順に相応しく人の話に耳をよく傾けたいです。







2012/03/11 20:41:06|その他
蛙の目借り時

 春の彼岸も近い、弥生半ば。あたたかくなると眠くなる。蛙の目借り時と言う面白い季語がありますが、朝夕なんとなく眠くて仕方ない。二十八日に仮寓からやっと新居に帰りました。長い仮住生活でしたが五か月も生活するとすっかり慣れて帰りたくなくなりました。「新居はいかがですか」と聞かれるけれど、新婚生活でもあるまいし、そんなに感動などはありません。かえって虚しくなります。「母よ、もう何もしなくてええんやで。味噌汁ひとつ炊かんでええんや。台所ももううちの家の物やないんや。何もかも人に貸してしまったんやで」と話すのはやはり悲しい。何も無くなってしまったことを思うとやはり寂しく後ろめたさを感じる。しかし、使った費用は死に金ではないだろうと確信しています。母にも解ってもらえると思っています。親戚にも趣旨を理解し賛同してもらえるだろう。 今日で震災からまる一年が経った。復興はなかなか進まないが被災者は明るく健気であり、励まされることが大きい。今日は一日震災一周年関連のテレビを見ていた。人々の苛酷な試練に自分の日々の安泰を喜び感謝せねばと思った。新しい部屋で母と仮住の五か月と然程変わらない生活をこれからも続けて行くことが出来れば有難いことです。母の物忘れは進んでいる。確実に認知症だ。息子として、それを認知しなければならない。そして、その母にまだまだ頼らねばならない。不足を言わずなんとか母子で恙なく暮らしたい。
 
  春の護符吊りし耳順の車いす
 
  子が呉し桃の節句のチヨコボール 
 
  風船のひとつに婆とあそびけり 
 
  星に見ゆとは月並みよ犬ふぐり 
 
  春めくと夕べに来たり仏壇屋 
 
  杭の根を泡のめぐるや春の水 
 
  さんしゆゆの丸きつぼみに風尖る
 
  雛の日や婆の呉れたる金平糖
 
  畑びとの大股歩きや土匂ふ 
 
  捨て臼の水に弥生の月揺るる
 
  啓蟄の月光黄みをおびてをり 
 
  胸白く恋の雀となりにけり  
 
  目高飼ふ鉢の上なり紙ひひな 
 
  啓蟄の雨啓蟄の風つれて 
 
  明と暗半分づつの弥生山 
 
  どこにでも咲きここに咲く薺かな 
 
  春来しと一端はさう思ひしと 
 
  手を入れて揺すりてゐたる春の水  
 
  春めくや赤子に話かけられて 
 
  冷え込んで鎮もる三月十一日 
 
  春雨に光る瓦礫の山また山 
 
  除染して奥羽の土の匂ひけり
 
  さうかなと言はれて思ふ目借時   
 
  四月からの新事業、小規模多機能型居宅介護事業が上手く行くことを願う日々です。伊賀市に於いて二か所目の事業所とか、果たしてどうなることか。オーナーとして事業が軌道に乗ることを心より願いたい。金は出しても口は出さないつもりの私ですが、地域の人々の役に立てないとき、要望が聞こえてきた時は市に対して口やかましく言わねばと思っている。俳句の日々も怠惰癖は治らず困ったものである。月日がこうも早く過ぎ、私の心を苛む。なんのすべもなくただ生きて行くだけか。いや、周囲の人々への感謝を忘れずにしっかりと生きていかなければならない。蛙に目を借られてはおられない。