日に疎く過ごして居たらもう秋の彼岸である。「暑さも彼岸まで」で随分涼しく、暑さはもうこんなものやろうと日中の残暑にもそう声を荒げることも無くなった。深秋の心地よい風を一杯浴びて車いすを走らせたいものである。傷を治すのに躍起となっていた時の気分とは今は違い、ここ一週間は傷が治っているので気が随分楽である。先日の十三日に芭蕉祭学童の部応募俳句の選を終えてホッとしている。今年も務めることが出来た喜びに浸っているが、年々子供の俳句への気持が薄れて行くようで寂しい。昨日は近くの医院を受診して来た。前回が六月のはじめで、早くも三か月経っている。何年振りかの胸と腹のレントゲンを撮ってもらった。今に始まったことではないが、腹が張る感じが常にあり、見た目は実に大きな腹であり、出会う人が「その腹、かまへんのか、尋常ではないで」と心配してくれるのだ。今夜は三年ぶりに巨人が優勝を決めた。テレビを見ながら、ひとり歓声を上げ喜んだ。私の周りの阪神ファンに、どや顔を見せてやりたいが無理であり、喜びも半減するようだ。また、民主党党首選は野田さんが過半数を獲得して楽勝、まあ予想通りである。さて、昔からの支持政党自民党は安倍さんが勝てばいいなと思っている。自民党が野党になってからは極めて政治に興味関心が無くなってしまった。それは市政にまで及んでいる。
さう易く忘らるものか花茗荷
秋澄むもいのちの先は見えずなり
針持てば母は生き生き山の萩
年寄りの励むぬり絵や秋すだれ
秋蠅に見られて飯を食ひにけり
稲雀垂れ穂に乗つて躍りをり
上り坂下り坂あり法師蟬
綾子忌や鶏頭ばかりが目に入りて
大納屋の煤け電燈大南瓜
むら雲の速き流れやきりぎりす
この森のこの楢の木の法師蟬
鶏頭に降り出して雨煙りけり
ころげ落つ秋の彼岸のかたつむり
手押車の三台つづく秋彼岸
深秋や年寄りに食すすみたる
母子の日々は知らん間に過ぎて行き、怠惰な自分を戒めてばかりだ。「しらふじの里」は多機能型となり半年を経ようとしている。利益が得られているかどうかも解らないが、ショート利用者もなんとかあり、スタッフの多忙さも見えており一日が活気にあふれているようだ。母はデイの常連、なかなか性に合っているようで有難い、何よりも気に入って通所してくれているのが嬉しい。もちろん私も参加、年寄りに合わすのは難しく気怠さを感じながらも、郷に入ればであって、お年寄りの話を聞いて喜んでいる。同じことを会うたびに聞いてくるところは、母と同じである。母には言葉を荒げ怒ってしまうが、利用者さんには優しく何度も聞いてやり、応えてやっている。それなのに、皆の中でもついつい母には怒ってしまう愚かな自分が嫌になるのである。この愚かさはいつまで続くのだろうか。周りの人の対応を見たり聞いたりしていたら、私にも出来る筈なのだ。居なくなって悔むよりなんとかして今のうちにとしきりに思っている。母が居てくれるから夜もここに居られるのだと、感謝の念で胸が一杯になるときも度々あるのだが、腹立てて怒らせてしまうことも度々ある。これが平常心かな。