ショート・ショート 処方箋【根拠のない自信の実】
エヌ氏は、ため息をつきながら朝食の「合成パン」をかじった。 窓の外では、物価高に抗議するデモ隊の声と、それを取り締まる警備ロボットの電子音が響いている。増税の通知は毎日届き、円の価値は紙屑に近づいていた。
「どうすればいいんだ」
各家庭は必死だった。節約、副業、自給自足。しかし、いくら歯を食いしばっても、社会という巨大な歯車が軋みを上げて止まりかけている。人々から希望という名の潤滑油が消え失せていた。
そんなある日、テレビの全チャンネルがジャックされた。画面に現れたのは、質素な背広を着た、いかにも誠実そうな男だった。
「私は救世主です。皆さんの苦しみをすべて解決しましょう」
男は宣言した。人々は色めき立った。しかし、期待はすぐに失望に変わった。 救世主は、魔法で金を増やすわけでも、資源を湧き出させるわけでもなかった。彼が行ったのは「徹底的な対話」と「あまりに正論すぎる政策の提示」だった。
「これではダメだ」と人々は罵った。「正論で腹が膨れるか! もっと手っ取り早い奇跡を見せろ!」
結局、救世主は暴徒化した群衆に追われ、どこかへ消えてしまった。日本は以前にも増して暗い絶望に包まれた。
数日後。エヌ氏の家のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには古びたトランクを持った小柄な老人が立っていた。
「救世主の弟子です。師匠は失敗しましたが、私ならお役に立てるかもしれません」
老人はトランクから、一本の小さな「銀色の笛」を取り出した。
「これを吹けば、未来が明るくなりますか?」
エヌ氏が冷ややかに問うと、老人は首を振った。
「いいえ。これは『現実を少しだけ書き換える笛』です。ただし、効果が出るのは、あなたが一番大切にしている場所……つまり、この家の庭だけです」
老人は笛を一吹きした。ピーッ、と妙に気の抜けた音が響く。 「さあ、庭を見てごらんなさい。今の日本に最も欠けているものが実っていますよ」
エヌ氏が半信半疑で裏庭へ回ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。 枯れ果てていた植木鉢から、見たこともない透明な「実」が鈴なりになっていたのだ。
エヌ氏がその実を一つもぎ取り、口に運ぶ。 味はない。しかし、飲み込んだ瞬間、エヌ氏の頭の中から「不安」という霧が綺麗に晴れ渡った。
「これは……?」
「『根拠のない自信の実』ですよ」老人は微笑んだ。 「今の日本人は、あまりに賢くなりすぎて、根拠がなければ動けなくなってしまった。でもね、世界を変えるのはいつだって、根拠もなく『なんとかなるさ』と笑える人間のエネルギーなんです」
エヌ氏は、数年ぶりに声を上げて笑った。 通帳の残高は増えていない。税金も高いままだ。しかし、なぜか「明日もまた、面白い工夫をして生きてやろう」という力が体の底から湧いてくる。
ふと見ると、隣の家の庭からも、その隣からも、ピーッという気の抜けた笛の音が聞こえ始めていた。
翌朝。ニュースキャスターが不思議そうに報じた。 「原因は不明ですが、全国的に消費意欲が爆発し、新しい事業を始める人が急増しています。皆、なぜか楽しそうです」
経済学者が首をかしげる横で、エヌ氏は庭の透明な実をもう一つかじり、軽やかな足取りで仕事へと出かけていった。