ショートショート:『先生の消えた街』
その街では、いつからか「先生」という言葉が、まるで空気清浄機のフィルターのように、人間関係の摩擦をすべて吸い取る魔法の潤滑油として使われていた。
「いやあ、山田先生! 先日の生け花の見事さ、さすがでございますな!」 「何をおっしゃいますか、佐藤先生。佐藤先生の淹れるお茶の深みに比べれば、私などまだまだ……」
山田も佐藤も、ただのカルチャースクールの趣味仲間である。しかし、お互いを「先生」と呼び合うことで、二人の胸は満たされ、世界は美しく回っているように見えた。
この波は、やがて街全体に広がった。 ある日、市議会議員に当選したばかりの男が、市民に向かって胸を張った。 「私を先生と呼ぶのはやめなさい。私は皆さんの公僕だ」 口ではそう言いながらも、彼を「〇〇さん」と呼んだ市民の陳情は、なぜかいつも後回しにされた。市民たちはすぐに察した。「先生」と呼ばなければ、この街では物事が円滑に進まないのだ、と。
病院では医師が神のように君臨し、学校では教師が絶対の権力を持った。介護施設でも、ケアマネジャーや職員たちが、利用者の家族から「先生」と崇められている場合もある。言葉一つで、そこには明確な「上下関係」という壁が築かれていった。
そんな風潮に、へそを曲げた一人の男がいた。 街の小さな工務店を営む、腕の良い建築士でもある大工の五郎である。五郎は、職場の建築士同士で「〇〇先生」と呼び合っている若い連中を見て、いつも苦々しく思っていた。
「おいおい、おべんちゃらも大概にしろ。俺たちはただの職業の役目を果たしているだけだ。あっちが先生なら、雨漏りを一発で直す俺だって『屋根修理の先生』だし、毎日美味い米を作ってる田んぼのばあさんだって『農業の先生』だろうが。全員『〇〇さん』で十分なんだよ」
五郎の言い分は正論だった。しかし、世間はそれを許さない。五郎が頑なに「先生」を使わず、誰に対しても「〇〇さん」と呼び続けた結果、工務店の仕事はみるみる減っていった。人間、一度味わった「先生」という蜜の味は、そう簡単には忘れられない。承認欲求という名の病は、街をじわじわと侵食していた。
そんなある日。 政府から唐突に、ある奇妙な法律が施行された。 『言語平等化法』――社会の階級意識を排すため、公の場で「先生」という敬称を使用することを一切禁止する、というものだった。違反者には重い罰金が科せられる。
街は大混乱に陥った。 「山田さ……いや、山田氏。本日の、その、お召し物は……」 「佐藤氏、お互い様です。どうにも、言葉が詰まりますな」
潤滑油を奪われた街の歯車は、ギシギシと音を立てて軋み始めた。 議会場では議員たちが「さん」付けで呼ばれることに激しいストレスを感じ、審議が全く進まなくなった。病院の医師たちは、患者から「先生」と呼ばれなくなった途端に元気をなくし、誤診を連発した。カルチャースクールは、お互いを持ち上げる言葉を失ったことで、会員が激減して閉鎖に追い込まれた。
「ほら見ろ。みんな、ただの記号に踊らされていただけなんだ」
五郎は一人、誰もいなくなった居酒屋でビールを飲みながら、満足そうにつぶやいた。世界は自分の思った通り、フラットで平等な場所に変化しつつある。これからは実力と、本当の人間性が評価される時代だ。五郎はそう信じて疑わなかった。
翌朝、五郎の携帯電話が鳴った。ひどい雨漏りに悩まされているという、かつての常連客からの緊急の依頼だった。 五郎は道具箱を担ぎ、意気揚々とその家へ向かった。屋根に登り、鮮やかな手際で原因を突き止め、ものの三十分で完全に修理を終わらせた。
家の主人は大喜びし、五郎に頭を下げて言った。
「いやあ、素晴らしい! 五郎さん、あなたは本当に命の恩人だ。この雨漏りをこんなに早く直せるなんて、五郎さんは、我が家にとって最高の……」
主人はそこで言葉を濁した。「先生」と言いかけて、法律を思い出したのだ。主人は慌てて、別の言葉を探した。
「最高の……ええと、優秀な、技術提供、作業員さん、ですな!」
その言葉を聞いた瞬間、五郎の胸の奥で、何かが冷たく冷え切っていくような感覚が走った。
作業員。確かにその通りだ。自分はただの、屋根修理の作業員。職業の役目を果たしただけ。 しかし、なぜだろう。ほんの少し前まで、この主人が自分のことを「五郎先生、さすがです!」と、おべっか交じりに褒めちぎってくれていたあの頃の、あの、なんとなく誇らしかった空気感が、妙に恋しくなってしまったのだ。
「……五郎さん? どうかしましたか?」
五郎は、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。 「いえ、なんでもありませんよ。ただの、作業員ですから」
空を見上げると、雨上がりの青空が広がっていた。しかし、五郎の心には、言葉にできない妙な虚しさが、ぽっかりと穴を開けていた。承認欲求という厄介な悪魔は、五郎の心の中にも、最初から静かに巣食っていたのかもしれなかった。