強い者には媚びへつらい、弱い者を「教育」の名の下にいたぶる輝子さん。その醜くも哀れな行動の根底にあるのは、理屈ではなく、生き物が持つドロドロとした「縄張り意識」そのものでした。
金魚鉢の古株金魚が新入りを突き回すように、あるいは閉鎖的なムラ社会が転校生をハジくように。人間の皮をかぶった剥き出しの本能と、そこから生まれる陰湿な人間関係の泥沼を。。。
『鎧をまとったお姫さまの、ちいさな踏切』(本能の泥沼)
それはまるで、狭い金魚鉢の中に、新入りの小さな金魚が放り込まれたときの光景に似ていた。
古株の金魚は、じぶんの縄張りを荒らされるのが我慢できない。新入りが泳ぐたび、執拗に追い回し、尾ひれをかじり、水槽の隅へと追いつめていく。そこに理由なんてない。あるのは「ここは私の場所よ!」という、理屈抜きのドロドロとした本能だけだ。
輝子さんにとっての職場は、まさにその金魚鉢だった。
「鈴木さん、お昼休みに給湯室で他の部署の人とお喋りしてたでしょう? うちの部署の機密情報が漏れたらどうするの? 転勤者なら転勤者らしく、まずはこの場所のルールに染まりなさいよ」
輝子さんの口から出る言葉は、相変わらず「リスク管理」だの「組織の規律」だのといった綺麗事の包装紙で包まれている。だけど、その中身はただの『新入りへの嫌がらせ』だ。 他校からやってきた転校生を、教室のボスの引き立て役たちが「あの子、ちょっと生意気じゃない?」と手ぐすね引いて待ち構える、あの陰湿な教室の空気が、そのまま大人のオフィスに持ち込まれている。
輝子さんがやっていることは、古き良き(いや、悪き)日本の家庭で繰り広げられてきた「嫁姑のバトル」とも、まったく同じ構造だった。
「私が若い頃は、もっと過酷な環境で耐えてきたのよ。今の若い子はちょっと言われたくらいでメソメソして、本当に甘えてるわ。私がビシッと躾けてあげなきゃ、この会社のためにならないの」
大義名分を盾にして、じぶんが過去に味わった理不尽やコンプレックスを、そのまま次世代の弱い者へとスライドさせてぶつける。自分が姑からイジメ抜かれたから、今度は入ってきた嫁を徹底的にいたぶる――そんな因業な姑のドロドロとした執念が、輝子さんの背中からはハッキリと立ち上っていた。
そのくせ、金魚鉢の「飼い主」である上司が近づいてくると、彼女は一瞬で上品な高級金魚に変身する。
「あ義彦部長ぉ、このお茶、温度にこだわって淹れましたの。どうぞお疲れを癒やしてくださいね。……ええ、新人の指導ですか? はい、私の身を削ってでも、一人前に育ててみせますわ」
ハチミツ混じりの猫なで声。さっきまで鈴木さんを睨みつけていた毒蛇のような目はどこへやら、部長の前では潤んだ瞳で甲斐甲斐しく立ち回る。上司という名の「絶対的な権力者」にべったりと寄り添うことで、じぶんの縄張りでの支配権を保証してもらおうとしているのだ。
強いものには尻尾を振り、気に入らない新参者は徹底的に排除する。 その姿は、一見するとお局様の意地悪に見えるけれど、本質はもっと哀れで、浅ましいものだった。要するに、猿山のボス猿の顔色を伺いながら、新入りの小猿を噛みちぎろうとする「器の小さなサル」と何一つ変わらないのだ。
「私は会社のために、正しいことをしているだけ……」
輝子さんは心の中でそう呟き、じぶんの正当性を必死に担保しようとする。 そうやって他人に迷惑をかけ、職場の空気を腐らせ、若い芽を摘んでいることの罪悪感から、本能的に目を背けている。
自分が作ったドロドロの泥沼の中で、新入り金魚の尾ひれを千切りながら、同時に上司の顔色を伺ってビクビクと泳ぎ回る輝子さん。彼女の心の中の金魚鉢は、もう濁りきって、一寸先も見えなくなっているのだった。