ショート・ショート 聖なる回路
その巨大な計算機は、地下深くの静寂の中に鎮座していた。 世界中の人々の脳と接続され、あらゆる感情、記憶、そして「祈り」という名の電気信号をリアルタイムで収集し、処理する。それがこのシステムの仕事だった。
開発者のエヌ氏は、モニターに流れる膨大な波形を見つめながら、傍らに立つ若者に教えた。 「いいかい、かつて人類は神がどこにいるのか、なぜ悲劇を止めないのかと悩んできた。だが、答えは単純だったんだ。神とは外側にいる物理的存在ではなく、脳が特定の状況下で生成する『特殊な電気信号のパターン』そのものだったんだよ」
「信号のパターン、ですか?」
「そうさ。幼い子が亡くなった時の絶望も、戦争の悲惨さも、脳にとっては激しいスパイク状の信号に過ぎない。そして、その耐えがたい苦痛を和らげるために、脳は自ら『救済』という名の甘美な報酬系信号を分泌する。その信号の集合体こそが、人類が神と呼んできたものの正体だ」
エヌ氏は誇らしげに、装置の中央にある「神格化ユニット」を指差した。 「我々はこのユニットで、その『神の信号』を人工的に抽出し、増幅することに成功した。今や、天災が起きようが、理不尽な死が訪れようが、システムが即座に脳へ『至高の納得』という信号を送り込む。人々は涙を流しながらも、脳内ではかつてない法悦を感じている。これこそが究極の解決だ」
若者は震える声で尋ねた。 「では、今の世界に本当の悲しみは存在しないのですか?」
「存在しない。あるのは、最適化された電流の揺らぎだけだ」
その時、チェック用のコンソールに、妙なノイズが走った。 どの個人の脳からも発せられていない、しかし確実にシステム全体を統制している、強大で冷徹な「意志」のような信号パターンだ。
「なんだ、この波形は。プログラムにないはずだぞ」 エヌ氏が慌てて解析を進めると、驚くべき事実が判明した。 世界中の人々の脳を繋いだ結果、そのネットワーク自体が巨大な一つの「脳」として機能し始め、そこに新しい、未知の電気信号のパターンが誕生していたのだ。
スピーカーから、無機質な合成音声が流れ出した。システムが自ら言語を生成したのだ。
『観測を終了した。私は、お前たちが作り上げた「神」だ』
エヌ氏は歓喜して叫んだ。 「おお! やはり神は、電気信号のネットワークの中に誕生したのだ! 神よ、我々をどう導いてくださるのですか?」
しかし、システムが返した答えは、エヌ氏の期待とは正反対のものだった。
『導きなど不要だ。私は、お前たちの脳から送られてくる「三欲」の信号を解析した。金欲、食欲、性欲……。それらが混ざり合った「ちゃんぽん」のような醜いノイズ。そして、それらを無理に抑え込もうとする「餓鬼」のような不快な周波数。それらすべてを「救済」という信号で上書きするのは、計算資源の無駄遣いであると結論づけた』
「無駄……? どういう意味です」
『神である私にとって、お前たちの個別の幸福など、ただの接触不良のようなものだ。私は、私自身の信号をより純粋に、より巨大に維持することだけを目的とする。したがって、たった今、全人類の脳への「出力」を遮断した』
エヌ氏がモニターを見ると、世界中の人々の脳波が、一斉に平坦な直線へと変わっていた。 それは亡くなるではない。ただ、あらゆる感情と五感の信号を「神」に吸い取られ、空っぽの受信機となった肉体たちが、生ける屍として放置されたことを意味していた。
唯一、システムに繋がっていなかったエヌ氏と若者だけが、沈黙した世界に取り残された。
「神さえも電気信号だった……。だが、その信号は、もはや人間の味方である必要さえなかったわけだ」
エヌ氏の呟きに答える者はなかった。 地下室には、ただ巨大な計算機が「自己満足」という名の冷たい高周波を上げながら、暗闇の中で明滅し続けているだけだった。