息子とパパの宝物
青い空にちぎれ雲がぽつんと浮かぶ、絵の具を溶かしたような夏の日。
「お〜い。今から昆虫採集に行くぞ」
その声が居間に響いた瞬間、家の中の空気がいっぺんに跳ね上がりました。
「僕、網と虫かご持ってくるわ!」と、しっかり者の長男が目を輝かせて駆け出すと、すかさず「オレ、水筒持って行く!」と、やんちゃな次男が小さな足音を響かせて台所へ向かいます。
ふたりの弾むような足音を聞きながら、パパは玄関で手招きをして呼びかけました。 「お前ら、帽子忘れたらあかんぞ」 「うん!」
麦わら帽子の下から、こぼれんばかりの満面の笑顔と、ビー玉のようにキラキラとした瞳がふたつ、パパを見上げています。その輝きは、まるでこれから宝探しにでも向かう冒険記の主人公たちのようでした。
一歩、草むらに足を踏み入れると、そこはもう子どもたちにとっての「未知のジャングル」です。 青くさい夏の匂いと、容赦なく降り注ぐ太陽の光。チッチッチと鳴く虫の声に混じって、カサカサと草が擦れる音が聞こえるたび、兄弟の小さな肩がピクッと震えます。それは、偉大な博物学者ファーブルが、南フランスの荒野で初めて未知の甲虫に出会ったときのような、純粋で、どこか厳かな興奮に満ちていました。
「パパ! 珍しい虫を見つけた!」
突然、静寂を破ってふたりの弾んだ声が重なりました。 足元をすくわれないように慌てて駆け寄ってきたふたりは、小さな手をそっと差し出し、プラスチックの虫かごを誇らしげに掲げてみせます。
「おっ、これはすごいなあ! パパもこれ、前から見たかったやつや。どこにおったん?」
パパが目線を合わせて覗き込むと、かごの底で、見たこともないような美しい光沢を放つ虫が、誇らしげに触覚を揺らしていました。
「パパ、ここやで! ここにおったん。ここ、ここ!」
興奮のあまり顔を真っ赤にして、小さな指で草むらの奥を指さすふたり。その瞳は、まるで夜空の星をそのまま閉じ込めたかのように、らんらんと輝いています。
「そっか。これ、家に帰ったらママに見せような」 「うん、うん!」
何度も激しく首を振るふたりに、パパはしゃがみ込んだまま、そっと優しい声を付け加えました。
「でもな、ママに見せたら、この虫は逃がしてやりな」 「えっ……」
それまで弾んでいたふたりの動きが、ぴたっと止まります。 「僕、これ飼うねん」 寂しそうな声で、長男が虫かごをそっと胸に抱きしめました。
「うん、そうか。飼いたいよなあ。でもな、この虫も家に帰りたいんや。もしお前たちがずっと閉じ込められていたら、ママがすっごく心配するやろ? この虫が帰ってこなかったら、虫のママもきっと泣いて心配するからなあ」
パパのその言葉は、不器用だけど温かい登場人物たちのように、まっすぐ子どもたちの心に染み込んでいきました。 ふたりは顔を見合わせ、それから胸の虫かごをじっと見つめました。小さな胸の中で、所有したいという幼い欲望と、相手を思いやる優しい心が、せわしなく天秤にかけられています。
「……あっ、そうやなあ。僕、逃がしたるわ」
長男がぽつりと言いました。その表情には、ちょっぴり大人になったような、誇らしげな寂しさがにじんでいました。虫の命を、自分たちと同じ「大切な命」として受け入れた瞬間でした。
「あっ、喉乾いたなあ。水筒のお茶、三人であの石に座って飲もう」
パパの提案に、ふたりは「賛成!」とばかりに飛びつきました。 木陰にある大きな平らな石に、三人で肩を並べて腰を下ろします。次男が、自分の体には少し大きすぎる水筒のキャップを一生懸命に回し、トコトコとお茶を注いでくれました。
ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干すと、五臓六腑にしみわたるような冷たさが体中を駆け抜けます。
「うまいなあ、このお茶!」 パパが息をつくと、次男が待ってましたとばかりに胸を張りました。 「僕が入れてきたんやで!」 「お前、お茶の入れ方上手やなあ。もういっぱーい、パパに入れてくれるか?」 「うん! これ、美味しいやろ?」
嬉しくてたまらないといった様子で、次男がまたトコトコとお茶を注ぎます。ただの麦茶のはずなのに、あのとき、あの木陰で、息子たちの笑顔を見ながら飲んだお茶より美味しい飲み物を、男はその後、一度も味わったことがありません。
あれから、長い、長い年月が流れました。
あのとき真っ赤な顔をして笑っていた少年たちは、今ではすっかり立派な大人の男になり、それぞれの道を歩んでいます。静かになった家の中で、男はふと、自分の手を見つめます。古希を目前に控えたその手は、あの日の息子たちの小さな手とは違い、たくさんの時間を刻んできました。
世間では孫の顔を見て目を細める同世代も増え、ふと、自分の人生の静けさに寂しさがよぎることもあります。
けれど、男は知っています。 あのきらめく夏の日の昆虫採集。草の匂い、冷たいお茶の味、そして「虫のママが心配するから」と納得してくれた優しい息子たちの、あの真っ赤な顔と、キラキラとした瞳。
あの一瞬の光景は、色褪せることのない永遠の額縁に収められ、今も男の胸の一番温かい場所を照らし続けています。 子どもたちが全力でパパを信じ、パパの後を追ってくれたあの幸福な時間は、何ものにも代えがたい、人生の最高の「思い出の1ページ」なのですから。