ショート・ショート 3000の星を結ぶ旅人
夜の帳(とばり)が下りる頃、町の小さな一角にある「その場所」の窓からは、いつも柔らかな明かりが漏れていました。
そこは、時を刻むのを忘れた古いブリキのおもちゃや、セピア色に染まった懐かしい写真が静かに並ぶ、小さな私設博物館。館長を務める男――マサは、閉館後の静けさの中で、一枚の古い世界地図を広げていました。
テレビからは、海の向こうで続く争いのニュースが、冷たい電子音となって流れています。 マサは、深く、深い溜息をつきました。
「世界人口は、いまや83億人か……」
彼は自分の刻んできた人生を振り返ります。かつて医療の現場で多くの人の身体と向き合い、いまは地域の頑張る人たちの体調を整える場所で、一期一会の出会いを重ねていく日々。けれど、地球という途方もなく広い世界の中で、自分が歩んできた道など、ほんの一筋の細い糸のようなものでした。
宇宙の大きな視点から見れば、人間なんて、地面にしがみついて生きているちっぽけな苔のようなもの。 それなのに。そんな小さくて儚い存在なのに、なぜ人間は、互いに傷つけ合い、争うことを止められないのだろう。
「なぜか……なぜか、なぜか……」
胸を締め付けるような問いが、誰もいない館内に虚しく響きます。窓の外に広がる夜空を見上げると、星たちが冷たく瞬いていました。
その時です。 棚の隅に置かれた、お気に入りのゼンマイ式のブリキのロボットが、触れてもいないのに「カチリ」と小さな音を立てました。
マサが驚いて目をやると、そのロボットの隣に、いつの間にか一人の奇妙な旅人が腰掛けていたのです。仕立てのいい、けれど少し擦り切れたコートを着たその男は、静かな、すべてを見通すような優しい目でマサを見つめていました。
「こんばんは、マサさん。あなたの心に降る雨の音が聞こえて、つい立ち寄ってしまいました」
男は自らを『オリオン』と名乗りました。物語を紡ぎ、世界の記憶を記録する旅人だと。
「オリオンさん……あなたなら、わかるかい?」マサは、消え入りそうな声で尋ねました。「この世界はこんなに広くて、私たちはこんなにちっぽけなのに、どうして人は争いばかり起こすんだろう。僕たちが一生に出会える人なんて、ほんの僅かなのに」
オリオンは穏やかに微笑み、マサの広げた世界地図の上に、そっと自分の手を重ねました。
「マサさん。人間が争うのはね、私たちが『苔』だからですよ」
「苔……?」
「ええ。自分が拠って立つ地面が、あまりにも狭く、脆いことを知っているから。人間はみんな、本当は怖くてたまらないのです。大切なものを奪われるのが、傷つくのが恐ろしくて、小さな両手をいっぱいに広げて、虚勢を張ってしまう。隣で銃を構えている人も、実は自分と同じように、怯えて震えているただの人間なのに、その姿が見えなくなってしまうのです。寂しくて、守りたくて、だから争ってしまう。それは、人間の悲しい弱さであり、裏返せば、愛されたいと願ういじらしい本能なのです」
マサは黙って、オリオンの言葉に耳を傾けました。胸の奥の尖った痛みが、少しだけ和らぐのを感じながら。
オリオンは続けます。
「でもね、マサさん。だからこそ、人間の世界には奇跡がある。この83億人という大いなる混沌の中で、あなたが一生のうちに名前を知り、言葉を交わして心を通わせる人は、一体何人いると思いますか?」
まささんは首を振りました。「十万人……いや、五万人くらいだろうか」
「いいえ。実は、たったの3,000人ほどです」
オリオンの指先が、地図の上の日本、そして三重の小さな伊賀の町を優しく指さしました。
「83億分の、わずか3,000。それは、宇宙の宝くじに当たるよりも遥かに低い、奇跡のような確率です。あなたが今日まで出会ってきた人、そして明日から出会う人。その一人ひとりが、冷たい宇宙の闇のなかに灯る、あなただけの『星』なのです」
オリオンは立ち上がり、ガラスケースの中のブリキのおもちゃたちを見つめました。それらは、作られてから何十年も経ったいまも、誰かの愛情をその身に宿して、優しく光っています。
「マサさんが歩む道は、地球全体から見れば、ほんの一筋の糸くずかもしれない。けれど、その道ですれ違い、言葉を交わす3,000人の心の中に、あなたの温かい微笑みや、優しい眼差しは、消えない光として刻まれます。 世界を変えることは難しく思えるかもしれない。でも、あなたの手の届くその3,000人の星座を、温かい光で結ぶことはできる。争いのニュースに胸を痛め、涙を流せるその優しい心こそが、いまこの冷え切った世界をそっと包み込む、一枚の毛布になるのです」
オリオンはマサの前に歩み寄り、その温かい手をそっと握りしめました。
「下を向くのは終わりです。あなたの掌のなかには、これから出会う人たちの、数え切れないほどのぬくもりがもう待っているのですから。さあ、あなたの美しい星座を編みに、明日の道へ歩き出しましょう」
ハッと気がつくと、部屋の中にはまた、静寂が戻っていました。 隣の席に旅人の姿はなく、ただ、ブリキのロボットが窓からの月光を浴びて、静かに佇んでいるだけでした。
けれど、マサの胸の中にあったあの重い霧は、すっかり晴れていました。 広げられた世界地図が、心なしか優しく光って見えます。
「3,000人の、僕だけの星座か……」
マサは愛おしそうに地図を畳み、博物館の明かりを消しました。 明日、またこの場所の扉を開けるとき、新しく出会う誰かに、とびきり温かい微笑みを届けよう。そう心に誓いながら、マサはゆっくりと、前を向いて歩き出しました。 夜空を見上げると、さっきまで冷たく見えた星たちが、まるで彼を応援するように、優しくまたたいていました。