西暦2364年。惑星連邦のフロンティアは拡大を続けていたが、地球の古都・伊賀にある「旧赤堂」は、単なる歴史的建造物ではなかった。そこは、失われた古地球の「精神文化」を解析し、全宇宙の知的生命体へ平和の種火を供給するための、連邦宇宙艦隊・文化遺産管理局の極秘拠点であった。
そこで勤務する三人の士官には、全銀河の命運が密かに託されていた。
- ハマ大佐(科学士官):常に穏やかな笑みを浮かべ、難解な量子力学をジョークに変えるユニークな男。
- カワ大佐(保安士官):古武士のような頑固さを持つが、防御シールドが臨界点に達したとき、誰よりも先に動力室へ飛び込む不屈の男。
- ヤマ大佐(外交士官):銀河系で「最高の笑顔」と称されるベテラン。複雑な技術作業はハマとカワに任せ、彼女自身は種族間の心の架け橋となる。
漆黒の宇宙に、U.S.S.エンタープライズNCC-1701-Dの優美なシルエットが浮かんでいた。
「艦長、地表の『旧赤堂』を中心とした重力勾配が限界値を超えました。時空の連続体に、まるで『針』を刺したような穴が空いています。そこから漏れ出しているのは……全宇宙の負の感情の澱です」
ハマ大佐がLCARSコンソールを叩きながら報告した。
「伊賀の山々は、俺の先祖が守り抜いた地だ。指一本触れさせん!」カワ大佐が吠え、ヤマ大佐は静かに微笑んだ。「力で抑え込もうとすれば、穴はもっと大きくなるわ。私がその『絶望』に、挨拶してくる」
転送された講堂は、異様な風景に満ちていた。床からは黒い霧が立ち上り、空間が幾何学的に歪んでいる。
「計算終了!」ハマ大佐がトリコーダーを掲げる。「この空間を安定させるには、純粋な『精神的質量』を物理変換してぶつけるしかない。カワ君、フェイザーの出力を私と同調させてくれ!」
カワは重厚な構えで衝撃波を受け止め、障壁を維持する。その中心でヤマ大佐が歩み出た。「見て。これが私たちの『不完全さ』という名の美しさよ」
彼女の無尽蔵の慈愛が「虚無」を包み込んだ。ハマの理論、カワの不屈、ヤマの慈愛。三位一体の波動が伊賀盆地を覆っていた暗雲を一瞬にして吹き飛ばした。
数時間後。ハマが不思議な表情でモニターを見た。「中和されたエネルギーが伊賀盆地の地形に反射して、特定の周波数として定着してしまいました。副作用の持続時間は、約五百年……」
門の外では、伊賀市民たちが全員、ヤマ大佐そっくりの「最高の笑顔」を浮かべて、互いに深くお辞儀をし合っていた。喧嘩をしていた夫婦も、借金の取り立て屋も、全員が「難しいことは他の人に任せましょう」と譲り合っている。
「誰も怒っていない。これはユートピアじゃないか」カワが呟く。
伊賀の街には、野良猫までもが気品ある笑顔を浮かべて歩く、奇妙で、完璧で、恐ろしいほど幸福な静寂が訪れていた。
西暦2365年。伊賀は今や、争いが物理的に存在し得ない「高次元平和領域」へと変貌していた。
「艦長、本日の巡礼者は四万人を超えました。ここに来るだけで、彼らのトラウマは『ヤマ大佐の笑顔』と同調し、消滅していくのです」ハマ大佐が報告する。
カワ大佐も誇らしげだ。「俺の警備チームは武器を捨てた。ここに来る者は、どんな凶悪犯でも『カワ・プロトコル(頑固なまでの善意)』に変貌してしまうからな」
旧赤堂の中庭で、宿敵同士だったクリンゴン人とフェレンギ人が手を取り合い、涙を流していた。「名誉よりも慈愛に震えている」「利益など、この静寂の前では塵に等しい」
ヤマ大佐がその様子を見守る。「いいわ、愛し合いなさい。それが、この建物の新しい定義なのだから」
社会の期待は最高潮に達し、連邦大統領は全市民の伊賀移住すら検討し始めていた。
全銀河が「同じ幸福」を共有した結果、奇妙なことが起こった。
「ところで、カワ君。さっきから一時間、私たちは何を話していたかな?」ハマが尋ねる。
「さあな。だが、君が何を考えているか、私には完璧にわかっているんだ。君も私と同じ『幸福な思考回路』を共有しているんだから」
対話は不要になった。情報の差異がない世界では、創造も驚きも必要性を失っていた。
「ヤマさん、君は今、本当に楽しいのかい?」
ヤマ大佐は、機械で描いたような完璧な笑顔で答えた。
「ええ、楽しいわ。システムがそう脳に伝えているもの。……でも、一つだけ困ったことが。私、さっきから自分が『笑っている』のか、それとも『顔の筋肉がその形に固定されているだけ』なのか、区別がつかなくなっちゃったの」
外では、何万もの巡礼者たちが、全く同じ角度で一礼していた。
伊賀の山々に、かつてないほど平和で、かつてないほど退屈な夕暮れが訪れた。
その美しさを愛でる心さえも、もはや「幸福のテンプレート」の一部として処理され、銀河から「孤独」という名の輝きは、永遠に失われたのである。
【 完 】