7月 14日に サントリーホール ブルーローズで開催された 新倉瞳さんと 尾上松也さんの 「響 〜某はセロである」 を観てきました 宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を斬新な舞台作品にしたものです 素晴らしかった
とはいっても クラシックにも歌舞伎にも縁の浅いwoyaji エンタメの深い評価はできません ただ クラシックと歌舞伎をつなげる という始めてみる世界であったし それが 違和感ないどころか 新倉瞳さんのチェロ演奏をとても引立てていたし 尾上松也さんの踊り(というの?)が なるほど セロ(cello)の精だからな ふむふむ とおもしろいし 「セロ弾きのゴーシュ」という(宮沢賢治の)ファンタジーを 語り で進められるのが ちゃんとした日本の伝統演劇のスタイルにはまってて とにかく 観ていてすばらしいのであります
で この「セロ弾きのゴーシュ」 woyajiは 3月に豊橋で新倉さんのサイン会でお話しできた時に 「セロ弾きのゴーシュ」の名が出てきて 帰ってから 改めてこの作品を読み直してみました w 新倉さんが頭の片隅にあると 感動が違いますww
何が素晴らしいかというと まず ゴーシュとそれを通しての作者が 音楽に対して大きな憧れを感じている と伝わること 音楽の魅力はリクツではなく 人が自然に感じ取れるもの 純粋さ そして 演奏するということが 何かしら 自分と人を喜ばせたり癒したりするもの そして当然のことながら 上手な演奏はすぐにはできない ということ
一生懸命に練習することと 少し遠回りしているような「その他の」こと を経験して 上達していく そんなことが 音楽(+演劇?)好きの人たちに 賢治のファンタジー世界であって かつ 自分たちも同じようになぞる道の物語 なので力が入る? w なのかもしれないなぁ と思います
そして セロは 歌う楽器 聴きやすくて 人(や動物w?)に 伝わりやすい音 という面があるかも 賢治もセロ好きだったのか 物語にピッタリの語感から選んだのか 「セロ弾きのゴーシュ」 は 後世に残る 名フレーズでもあると思います
今回の チェロ演奏の選曲は うまく原作とマッチしていてよかったし 劇の進行は 楽しく作られていました 松也さんは 「おんな城主 直虎」の今川氏真役で馴染みに
こういう舞台作品が どんな風に取り扱われるのか 再演があるのか 発展して一つの演目になっていく? のか わかりませんが チェロ演奏の 一つの姿として いいんじゃないかなあ
東京日帰りw でしたが 観に行ってよかった です もし 一回きりだったとして それならそれで とても貴重な作品にお目にかかれた 千載一遇という位置づけになることでしょう
ゴーシュが さえない男とは原作に書いてありませんが たぶんそうだと woyajiは勝手に思い込み 親近感をもっています woyajiはまだ 巧く弾けなくて泣いたことはありませんが 少しはゴーシュにあやかって セロ弾き に取り組みたいと思っています 夜中に練習はしないから・・鳥たちや獣たちはきてくれないかなw
p.s. woyajiの小さい頃 里には水車小屋が まだいくつか残っていました
水車小屋の主な役割は 水車の力で米の精米をすることです 一世帯の米でも結構長時間要するので かなり稼働率の高い施設でした
すでに ほぼ使われなくなってたので よく基地遊びとかに使っていましたw 小川の横にあって 質素だけど生活臭の残る小屋
woyajiより少し下の人たちは もうその姿も役割も知らない世代です ゴーシュが住んでいた という物語に wiyajiはすっと入っていける・・ うーーん w
瞳さんも松也さんも 実イメージまでは わかんないだろうなぁw
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