陶淵明さん(東晋:ずいぶん昔の人)の詩を知ったのは・・ いつ頃だったか 覚えていないのだけれど
まだ東京にいた頃(1995年くらい?)で おそらくNHKの「漢詩を読む」みたいな番組で 読まれたのを ひょいと聞いたときではなかったか
それはおそらく
歸園田居 五首といわれる詩の初めの部分
少無適俗韻 少きより俗韻に適ふこと無く 性本愛邱山 性 本と邱山を愛す 誤落塵網中 誤りて塵網の中に落ち 一去三十年 一たび去ること三十年 羈鳥戀舊林 羈鳥 舊林を戀ひ 池魚思故淵 池魚 故淵を思ふ 開荒南野際 荒を開く 南野の際 守拙歸園田 拙を守りて園田に歸る
若い頃から俗世間に合わへんかってん、山や野ーが好きな性格やってん せやのにまちごーて役人生活することになってしもて 三十年も月日が流れてしまいよった つかまえられた鳥は林を恋い慕うし、池の魚なら淵に戻りたいもんや せやからわいも、南の野ーで荒地の一角でも耕すべぇって 無理するのやめて、田舎に帰ることにしてん
ワタシは 漢詩に詳しくない なんとなく憧れるが ほとんど知らない
この頃は 他にすきな詩もなかったし けど
けっこう ガーンと来たんです
最後の 「拙を守りて園田に歸る」 っていう部分
細かいニュアンスはわからないけれど 卑屈な感じはしなくて どちらかというと 嬉々としてるような・・
で そーか ワシも似たよーなもんやん て
ワタシは 漠然と 40を過ぎたら よほど合ってる仕事なら別だが 仕事をいったんやめて 自分の好きなことをやろうと思っていた 経済的に困窮するかもわからないが 何をしたいか 見えないかもしれないが・・・
人生 幸いなグループに入ると自分で思えるような わりと理想的な職種の仕事ができる職場に入れた しかし そのような職場でも いろいろな問題があって
世の中から強い批判があって 組織として主体性を持てないでいたことや 労使問題、労労問題 旧態依然とした体質 とか
そういう中で 自分を保とうとすると どうしても周りに合わせ 衝突を避け 流されるまま サボりながら生きていくみたいになる こんな組織は 少々何をやっても変えられっこない・・と
どうにでも 自分を合理化できる というか 適当にごまかして できるだけ好きなことやっていようと
中でも労働問題は イヤになってからすでに長く 理想は理解できるのだが 現実味なく かつ単純化を志向する構造がイヤだった (最近 茂木さんとかの影響で 労使両陣営の「思考停止」がイヤだったんだなあ と理解できる)
さらに 自身 人生の失敗?というか ハナからうまくいかないこともあって いずれは 多くの人に接する環境から脱したい(引きこもりたい) と
そんな中で 出会った 陶淵明さんの詩の一節だったのだ
陶淵明さんの評価は まあ高い 素朴な田園詩人とか そういう分野を切り開いた人とか いわれている 反権力 反栄達 とかなのかなー
詩は素晴らしい と 人格や教養は高い と でも 人としてどうなのか 少なくとも 社会からは完全に落ちこぼれの範疇だ むしろ 昔から中国で 一定の評価を得てきたことが 不思議なくらい すくなくとも かっこよくはないのではなかろうか
自分には 知り始めた頃はともかく 今は わりとはっきり 陶淵明さんの魅力がわかる 詩を勉強したわけでもないけど どっちかというと ほとんど知らないけど
ある種の(きっと こうに違いないという) 確信がある・・
それは 自然や農業を楽しむことの愉しさを これ以上ないほど明確に謳っていること そこには 見栄はもちろん 負け惜しみもない 社会批判もあるかもしれないが 二の次だ
自分がいいと思うものを 堂々と発表しているのだ 社会の多数派でないことを承知の上で
そして 素朴というか 貧しい中にも この世には 楽しみ方 というものがある と提案しているのだ
それは 国が富み、物財が豊かになることとは独立して
そういうことを うすうす感じる人は 少なくないのかもしれない しかし 大多数は それを行動できない また社会的に弱すぎて 危なっかしくて やっていく確信はとてももてない
だから 苦しくとも 組織の一員となり 勤めを果たして俸禄を得る わずかずつでも 蓄財して将来の豊かさをめざす 世間を渡るに 思い通りにならないのは至極当然 それに負けてはならじと 男も女も たたかいつつ生きていく 苦難を乗り越えて 栄達や豊かさを得ることこそ 人生の醍醐味と
否定すべきこととは思わない ところが そんな道を進んでいくと 哀しいことに 人の素朴さや優しさを いつのまにか失っていく いつの間にか それほど望んでいなかった 財力や影響力(権力)に心を奪われ 社会を肯定し あるいは諦観し 社会的立場が強かれ弱かれ 自分を合理化するようになる
自分を言い聞かせられる人々はいい しかし 自分の中の なんかの違和感や不自然さをずっと感じる人も少なくない だから 結果として 陶淵明さんの提唱する価値にも光が当たる
自然のすばらしさはともかく 貧しさや社会的弱さは忌避したいから だれも 陶淵明さんみたいなマネしたくないんだけど 一種のあこがれは理解できる みたいな?
そんなんが 陶淵明さんの魅力の わりと一般的な解釈なんだろうと思う
で 自分は
もう一つ 感じる
それは 自然の 日常の朝夕の風景や暑さ寒さ 花木や鳥獣の営み それとともに 農のよろこび ということ
ワタシ自身 気づいたのは 40歳頃 転勤して 東京から離れた職場で わりと日常に 土 をいじりだしたとき
土をいじり 花木や野菜を育てることには 身体の奥底からのよろこびを感じる ことに気付いた 花が咲いたり 収穫のよろこびとは別の
こういうのは たぶん 頭というか意識より 身体が気づいたのだと思う
田舎で育ち 家族とともに田畑で作業したときの感触を思い出した そういう部分もあるだろうけど
結婚して 子供が生まれると もう説明など超越して うれしい (らしい) それに 似ている
料理というのは 人を喜ばせるものであって 自分が食べるだけなら 簡単に済ませてしまう 誰かに おいしいものを食べてもらうことがうれしいから よい食材を選び 手間暇かけて作り 何品も並べ 気をきかせた盛り方をしたり おいしい酒や花をそえたりする
それにも少し似ている
農業は 人としての自然な幸福感につながっている のだと思う
陶淵明さんは 戦争はもちろん 役人の厳しい労働や気づかれもイヤだったろうが なにより 農のよろこび に接していたい というのが 偽らざる心境だった と思う 他では 得られない (達成感とは違う) 味わい
ワタシもそう思うのです
はっきりいえば 若いころには 世間体を気にして できなかったけど 今は 社会の落伍者というありがたいレッテルを勝ち取っているので 気兼ねなく できると思うのです
陶淵明さん や ワタシのような人間ばかりでは ヨノナカ うまくいかないだろうけど ね
P.S. 陶淵明の漢詩については 「壺齋散人」さんの 陶淵明 詩と構想の世界 などを参考にさせていただきました |