なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2010/12/27 18:55:49|なべ重 つれづれ草
親しい詩吟の先生没
長年指導して頂いた先生(79才)が亡くなる。ひと月前迄
 
元気でおられたが、人生はかないものです。蓮如様(1415
 
〜1499)の御文をコピーして出棺の時、棺に花と一緒に喪
 
主さまの了解えて供える。
 
            ふしょう   そう        か
御文。それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、およそ
 
                          しちゅうじゅう      ご       いちご                                                         
はかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
 
           まんざい
さればいまだ万歳の人身をうけたりという事を聞かず。
 
                                 ぎょうたい
一生過ぎ易し。今にいたりて、誰が百年の形体を保つべき
 
や。我や先、人や先、今日と知らず、明日とも知らず、おくれ
 
          もとのしずく      つゆ
先だつ人は、本の雫、すえの露よりも繁しといえり。
 
           こうがん     ゆうべ  はっこつ
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
 
でに無常の風きたぬれば、すなわち二つの眼たちまち
                                                    とうり
閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李
 
 よそお                ろしんけんぞく    なげ
の装いを失いぬるときは、六親眷属集りて嘆き悲しめども、
      
         かい
更にその甲斐あるべからず。
 
                          やがい       よわ
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と
 
                                         なかなか
なし果てぬれば、白骨のみぞ残れり。あわれというも中々お
 
                              ろうしょうふじょう
ろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいな
 
れば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀
 
仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきなり。あなかしこ
 
あなかしこ。 蓮如さんからの手紙、五帖目第一通
 
 
 
 







2010/12/23 13:48:43|なべ重 つれづれ草
「坂の上の雲」を見て 3
乃木希典(1849〜1912)明治時代の軍人。長州藩(山口
 
県)江戸屋敷に生まれる。
 
(東西南北いく山河、春夏秋冬月また花。せいせんさいよ人
 
馬老ゆ、そうしん、なお是れ家を思わず)
 
満洲は実に広い平野であるが、東西南北には幾らかの山も見
 
え河もあって、春になれば花も咲き、秋にはよき月も出て我々の
 
心を慰めてくれる すでに戦いも1年あまりも過ぎて、兵隊も軍馬
 
も疲れているが、しかし兵隊の勇壮な心は、自分の家郷のこと
 
を思わず一生懸命にお国のために尽くしている。
 
私は思う、戦争は勝者、敗者であっても市民、家族が悲惨な
 
思いをする。戦争の愚かさ、みじめさを悟り、平和の尊さを
 
えたいと思います。
 
日本には名言がある「実るほど頭を垂れる稲穂かな」世界
 
中の国もこの言葉を理解すれば、領土問題、利権問題も解
 
決するでしょう。
 
 
 
 







2010/12/20 1:37:13|なべ重 つれづれ草
「坂の上の雲」を見て 2
爾霊山・・旅順の203高地(にれいさん)、 200mの山も激
 
 戦の為、3m低くなった山で乃木将軍によって名を付ける。
 
鐵血・・・兵器と人の血。  克難・・困難に打ち勝かつ事
 
(にれいざんはけんなれども、あによじがたからんや、だんし
 
功名こっかんをきす。てつけつ山をおおうて、さんけい改まる
 
万人ひとしく仰ぐ爾霊山)
 
  203高地が如何に嶮しくとも、登れる事が出来る、男子たる
 
 もの功名を立てるためににも困難に打ち勝ち覚悟が大切だ
 
 激戦によって山の形が変わってしまた。この激戦によつて遂
 
 に旅順を落とす事ができた。しかし多くの人命を失った、
 
 ああ爾霊山に万人が仰ぎ英霊を慰めるであろう。
 
日露戦争、軍の攻撃70日あまり、数万人の日本軍死者が 
  
       発生、栄光の陰に悲惨な出来事があり。
 
       明治天皇の大葬儀当日、静子婦人と共に多くの
 
       死者を出した事に責任をとり殉死する64才
 







2010/12/15 1:39:05|なべ重 つれづれ草
「坂の上の雲」を見て
NHKテレビ「坂の上の雲」を見て、遠い昔の日本と思われ
 
がちだが、110年前の日本の姿として見てみると、身近に
 
感じられる。
 
乃木希典、作「金洲城」 乃木将軍第三軍司令官として旅順
 
に向かう途中、明治37年6月7日激戦地の山頂より悲惨な
 
光景みて茫然として詩を作る。この戦いで乃木将軍の長男
 
勝典も殉職する。
 
 「さんせんそうもく、うたた荒涼。十里風なまぐさし新戦場。
 
  せいば進まず、人語らず。金洲城外斜陽に立つ」
 
  山も川も草も木もすべて砲弾の跡で生々しく、満月ただ荒れ
 
  果てた光景である。見渡す限り、風もまだ生臭い新しい戦場
 
  である。わが乗る軍馬も進もうとはせず、ともらの者も沈黙し
 
  て語らない。かくして夕陽傾く金洲城外にしばらく茫然として
 
  たたずんだ。
 







2010/12/11 2:37:19|芭蕉の句
芭蕉 最後の句
芭蕉 最後の句。 人間の定まりないありさまを観てみると、
 
の世のすべてはかないものであり、人生はまぼろしのようなも
 
のです。朝には紅顔ありて、夕には白骨となってしまう我が身
 
であります。芭蕉翁も51才と言う短い人生でしたが、その時代
 
誰も体験できない充実した人生だと思います。
 
芭蕉翁の遺骨は遺言により、膳所の義仲寺に葬られたが服部
 
土芳ほか伊賀の門人が遺髪を持ち帰り松尾家の菩提寺、愛染
 
院に墳を築いて故郷塚と祀った。
 
いらい愛染院故郷塚と言われるようになり、寺の敷地内に
 
句碑が沢山ある。