その後の松尾芭蕉翁、書物によると。上野公園に存在する
城の前。中世期、後白河法皇の勅願を承って平清盛が造営
と伝えられる、平楽寺と薬師寺の二院が建てられたと言わ
れている。 その頃、平氏の一族が鈴鹿山を越えて伊賀に
住み芭蕉の祖父もその1人だと伝えられている。
これらの一族も寿永3年(1184)6月鎌倉幕府が攻め入り、
滅びたり国外にに逃げ去った。
戦国末期、天正9年(1581)織田信長の天正伊賀の乱によ
り、壊滅的にまたもや廃滅している。
天正13年(1585)豊臣政権のもと近世初の封建領主とな
った筒井定次は、天正乱で廃虚になった平楽寺、薬師寺の
跡地に城郭を構えた。現在の俳聖殿、南側の窪地は定次
の時代の内堀の跡で、又 城に登城する入り口は俳聖殿の
西に存在していた。
しかし小田村から出火、責任を問われた定次は改易となり
四国伊予の国から来た、藤堂和泉守高虎・慶長13年(160
8)により平楽寺、薬師寺の跡地に五層の天守閣が建立さ
れたが、台風が発生、完成間近な天守閣が崩壊する。
高虎は城を築城するさい、上野東町だんじり蔵の隣に薬師
寺を移す、その為に菅原神社敷地内に神社なのに鐘つき堂
が残っている。
高虎は城下町の建設に着手し、城下町に名望ある旧土豪
層を移住させて町商人として、楽市楽座を勧め本町筋、二
の町筋、三の町筋しか商いが出来ないように定め。侍は忍
町、鉄砲隊家臣は鉄砲町と町割りさせ、おもしろい町名が三
筋町以外で商いが出来ない人たちを万町と定め、四国・伊
予の国から来た人たちは伊予町として現在もその町名が残
っている。
その頃、芭蕉の父松尾興左衛門は伊賀の旧地を出て赤坂
町に移住した。 芭蕉が生まれた頃、藤堂藩は二代目藩主
高次の時代だった。