なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2012/01/03 1:56:21|なべ重 つれづれ草
新年の店頭デスプレー。
☆明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願い申
 
上げます☆
 
辰年にちなんでデスプレーも昇龍の墨絵を掲げる。この墨絵
 
は書家、森右山先生に13年前に書いてもらった墨絵を大事
 
に保管してあり再度店頭に掲げました。
 
お屠蘇気分でNHKのテレビを見ていると「ガレキに立つ黄
 
いハンカチ・山田洋次被災地に向き合う」放映されていた男は
 
つらいシリーズで日本人の心のあり方をとり続けた監督しかし
 
現在、何かが掛けていると疑問を持ち震災後の現在「東京物
 
語」を制作していると言われていた。
 
昨年の漢字が絆で在ったように、今年は日本人の心に忘れ
 
れている「大和魂」が話題に成るように私は思います。
 
昨年来日したプータン国王がプータン王国はGDP世界経済
 
位が低いが、GDH(ハッピー)世界幸福度が高いと言われてい
 
た、ちなみに日本は調べてみると90位で驚きました。
 
 







2012/01/01 2:40:06|なべ重 つれづれ草
古希を迎えて
 
今年古希を迎えるに対して。「人生七十にして古来、希なり」
                                                                                           こらい  まれ
 
中国唐時代の詩人「杜甫」の詩に出てくる言葉です。
 
 
 今まで他人事のように思っていたが、さて自分が70才の
 
新年を迎えるに対して、老後の不安と他人では出来なかっ
 
た素晴らしい事が達成できた、充実感に満足しております。
 
一期一会不思議な出逢い、私が一番苦しいとき出逢った人
 
スーパーニチイ創業者奥さん「西端春枝」先生の出逢いが
 
なければ現在私の存在が無かったでしょう。
 
今後老いて行く80才に向かって、誰も想像が付かない国際
 
貢献の大きな夢の実現と老後の健康に注意し、明るい家庭
 
を築き上げたいと願っています。
 
せいねん重ねて来たらず、一日再び明日なりがたし、時に
 
およんでまさにべれいすべし、歳月は人を待たず)
 
陶 淵明(365〜427) 中国 東普の詩人 江西省九江市
 
まれ、唐以前の代表的な詩人64才で亡くなっている。
 







2011/12/22 3:19:33|芭蕉の句
芭蕉 師走の句 修正 2
その後の松尾芭蕉翁、書物によると。上野公園に存在する
 
城の前。中世期、後白河法皇の勅願を承って平清盛が造営
 
と伝えられる、平楽寺と薬師寺の二院が建てられたと
 
れている。 その頃、平氏の一族が鈴鹿山を越えて伊
 
住み芭蕉の祖父もその1人だと伝えられている。
 
これらの一族も寿永3年(1184)6月鎌倉幕府が攻め入り、
 
滅びたり国外にに逃げ去った。
 
戦国末期、天正9年(1581)織田信長の天正伊賀の乱によ
 
り、壊滅的にまたもや廃滅している。
 
天正13年(1585)豊臣政権のもと近世初の封建領主とな
 
った筒井定次は、天正乱で廃虚になった平楽寺、薬師寺の
 
跡地に城郭を構えた。現在の俳聖殿、南側の窪地は定次
 
時代の内堀の跡で、又 城に登城する入り口は俳聖殿の
 
西に存在していた。
 
しかし小田村から出火、責任を問われた定次は改易となり
 
四国伊予の国から来た、藤堂和泉守高虎・慶長13年(160
 
8)により平楽寺、薬師寺の跡地に五層の天守閣が建立さ
 
れたが、台風生、完成間近な天守閣が崩壊する。
 
高虎は城を築城するさい、上野東町だんじり蔵の隣に薬師
 
寺を移す、その為に菅原神社敷地内に神社なのに鐘つき堂
 
が残ってる。
 
高虎は城下町の建設に着手し、城下町に名望ある旧土豪
 
層を移住させて町商人として、楽市楽座を勧め本町筋、二
 
の町筋、三の町筋しか商いが出来ないように定め。侍は忍
 
町、鉄砲隊家臣は鉄砲町と町割りさせ、おもしろい町名が三
 
筋町以外で商いが出来ない人たちを万町と定め、四国・
 
予の国から来た人たちは伊予町として現在もその町
 
ている。
 
その頃、芭蕉の父松尾興左衛門は伊賀の旧地を出て赤坂
 
町に移住した。 芭蕉が生まれた頃、藤堂藩は二代目藩主
 
高次の時代だった。
 
 
 
 
 







2011/12/17 2:18:25|芭蕉の句
芭蕉 師走の句
 今年最後の芭蕉翁の句はやはり、この句だろう。
 
 色々な学説があるが、「芭蕉さんはどこで生まれたのか」
 
説では伊賀市上野赤坂で誕生したとなっているが、伊賀
 
市柘植町山出、名阪国道伊賀サービスエリア南側「萬寿寺」
 
近くに昔、伊賀国土豪の城として大規模な構えを持ち、伊賀
 
随一の中世の城跡と言われている「福地城」が存在してい
 
た。
 
伊賀土豪の城砦しては石垣造りが珍しく、その敷地内に松
 
尾翁芭蕉誕生の地として句碑が建てられていた。
 
明治26年翁200年遠忌に当たる年、松尾家六家を始め村
 
内の俳人、有志の協力により句碑が建てられたと書かれて
 
いた。
 
 翁誕生前は戦国時代で色々と変革があり、藤堂藩史
 
川口庄太夫氏など「芭蕉翁全伝」に色々と書かれているが、
 
どこで生まれたのか定では無い。
 







2011/12/15 1:49:23|なべ重 つれづれ草
「坂の上の雲」を見て 3 コピー
乃木希典(1849〜1912)明治時代の陸軍軍人。長州藩
 
(山口県)江戸屋敷に生まれる。吉田松陰の叔父に学び
 
詩歌にも優れ。西南戦争に出征し西郷軍と戦う、日清戦争、
 
日露戦争では、第3軍司令官に任命された。
 
(東西南北いく山河、春夏秋冬月また花。せいせんさいよ 人
 
馬老ゆ、そうしん、なお是れ家を思わず)
 
満洲は実に広い平野であるが、東西南北には幾らかの山も
 
え河もあって、春になれば花も咲き、秋にはよき月も出て
 
我々の心を慰めてくれる すでに戦いも1年あまりも過ぎて、
 
兵隊も軍馬も疲れているが、しかし兵隊の勇壮な心は、自分
 
の家郷のことを思わず一生懸命にお国のために尽くしてい
 
る。
 
私は思う、戦争は勝者、敗者であっても市民、家族が悲惨な
 
思いをする。戦争の愚かさ、みじめさを悟り、平和の尊さを
 
えたいと思います。
 
日本には名言がある「実るほど頭を垂れる稲穂かな」世界
 
中の国もこの言葉を理解すれば、領土問題、利権問題も解
 
決するでしょう。
 
話し変わって、今夜は「ふたご座流星群」が活発に活動する
 
時と報道されていた。深夜1時すぎ夜空を見上げて見ると
 
オリオンザ座と満月の間に偶然にも明るい流れ星を一個見
 
つけました。
 
満月が夜空を照らすので、なかなか見つける事が出来なか
 
た。しかし私たちの住む夜空上空が飛行機の航路となっ
 
入るので、オリオン座と月の下、西の上空から東の上空へ
 
何度も飛んでいく夜間飛行機を見つめていました