なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2012/05/23 0:34:30|芭蕉の句
芭蕉 11月の句
「猿蓑集」に出てくる有名な句、「伊賀に帰る山中にて」と前
 
書きがあり。また「あつかりし夏も過ぎ、悲しかりし秋もくれ
 
て、山家に初冬をむかえて」と土芳書簡にも前書きが書かれ
 
ている。
 
 芭蕉翁が元禄2年「奥の細道」の終点、大垣で数日間滞在
 
後、伊勢神宮におかげ参りに参拝し、伊賀に帰るため長野
 
にさしかかった時、はらはらと初時雨が降ってきた、ふと
 
見ると一匹の猿が雨に濡れぶるぶると、ふるえながらこちら
 
を眺めていた様子を句に詠んだ
 
この時期、蕉風の最高潮期を示すものと書物に書かれてい
 
る。
 
おにぎり型の句碑は、天明8年(1788)地元の俳人、遅月
 
宗雨が建てたものと言われ、昔はもっと山の上にあったが、
 
いっしか現在の所に転げ落ち200年以上もたち、字は風雪
 
で消えかかり読み取れず、古い句碑の横に10年以上
 
新しい句碑が建てられ整地されている。
 
このあたりサルが多く、地名にも猿野(ましの)という地
 
付けられている、私も今年の夏、猿野を自動車で通りかかっ
 
時、近くの歩道上をサル5匹が連なってゆうゆうと歩い
 
いたを確認している。 
 







2012/05/22 0:39:05|よもやま郷土史
源頼朝建立  岡八幡宮 2
古来、伊賀は多くの武芸者が出ている。なかでも白樫出身、槍
 
十文字(槍の先が十文字)高田流の高田又兵衛・忍術伊賀流、
 
服部半蔵・弓術日置流、日置弾正・柳生新陰流、荒木又右衛
 
門などそうそうたる剣豪が生まれている。
 
高田又兵衛は大阪冬の陣、夏の陣に参戦するが父死後江戸
 
に出て道場を開いた、江戸では名声高く門人4000人ともいた
 
と言わている。
 
又兵衛34歳の時、小笠原家に仕官する事になり、400石を得
 
て播州明石に住まいする。その後剣豪宮本武蔵との親交の始
 
まりで、共に九州豊前国小倉に転封後も同様、生涯の友となり
 
武蔵から短剣を贈られたと言われている。
 
 







2012/05/18 1:17:55|よもやま郷土史
源頼朝建立 白樫 岡八幡宮
知っているようで知らない、私達の住む秘蔵の国「伊賀風土記」。
 
の解る範囲内で色々と調べてブログに書き続けて行く事にします。
 
今回は伊賀市白樫「岡八幡宮」、神社の規模は伊賀一ノ宮・敢国神社
 
に次ぐ伊賀でも屈指の大神社です。
 
この神社は源頼朝公の勅命で、鎌倉「鶴岡八幡宮」の末社を全国に
 
設する予定だったが、頼朝公が早く没したので岡八幡宮は伊賀の
 
白樫が最初で最後の建設となった。神社の境内では創建以来、4月
 
中旬には必ず流鏑馬神事が行われています。
              やぶさめ
 
 ☆流鏑馬神事: 走る馬上から的に向かって矢を射止める神事。







2012/05/05 0:51:50|芭蕉の句
芭蕉 5月の句
江戸・深川の作。昭和14年 蓑虫庵旧所有者、菊本碧山氏が
                                          へきざん
 
句碑を建立する。碑はまろやかな川石を使用、又、碧山氏の自
 
筆によるこの翁の句が刻ざまれています。
 
 
ふと何気なく草庵の垣根のあたりを見ると、ナズナが白く小さな
 
花を付けている。ふだんは気に求めない雑草も「よく見れば」と
 
表現し、小さな花にも清楚な可愛いい生命が宿っているのだと
                        せいそ
思うと大自然の営みに感動し、芭蕉自身に掛け合わせてい
 
のではないでしょうか。
 
 







2012/04/29 14:35:52|なべ重 つれづれ草
春の訪れ 江南春望
やっと暖かくなり春の訪れ時に思い出す好きな漢詩が在りま
 
す。 杜牧作、「江南春望」 唐時代の詩人(803〜852)
 
「千里鴬鳴いて緑くれないにえいず、すいそんさんかくしゆきの
 
風。なんちょう、しやくはちじゃうじ、多少のろうだいえんうのう
 
ち」
 
春は千里四方に満ちて、至る所で鴬が鳴き、緑の若葉は紅い
 
花に映りあって、まことに美しい。水辺の村にも山あいの村に
 
も、酒屋の旗が春風にはためいているのが見える。思えばあ
 
の南朝の頃には仏教が盛んで、この地には四百八十もの寺院
 
が建てられていた言うが、今もなお多くの楼台がけむるような
 
霧雨の中にそびえ立っているのがたちらこちらこちらに見え
 
る。 漢詩本より写す。