なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2012/07/17 1:32:34|芭蕉の句
大垣 奥の細道むすびの地記念館 6
奥の細道は江戸時代の旅の様子を書かれた,句と短文で綴
 
られた旅日記だと思います。江戸時代の旅はどのようにして
 
行くのか,乗り物は徒歩か馬か川舟か,又,旅の食べ物は何
 
を食べていたか,持ち物は何を持っていたか,日時,場所,誰
 
に出逢ったかその時の生活様式が詳しく書かれています。
 
奥の細道は芭蕉の兄さんに残すために,旅が終わってから旅
 
日記に幾度も書き直され,又旅を思い出し句を書き加えられ
 
ています。今回の大垣芭蕉記念館で知ることが出来ました。
 
芭蕉死後,弟子素龍(そりゆう)が清書して8年後,向井去来
 
(むかいきょらい)が京都で出版され奥の細道が世間一般に知
 
られるようになりました。
 
☆記念館の芭蕉庵売店では芭蕉にちなんだ本や菓子など商
 
  品が販売されいました。
 
 
 







2012/07/13 0:13:40|芭蕉の句
芭蕉 7月の句
一般に元禄6年7月7日は七夕で夏の句と思われがちですが,
 
芭蕉さんの時代,和暦の7月7日を西暦に置き換えると8月8
 
日,土曜日となり季語は秋となるそうです。
 
伊賀盆地を流れる川の水は上野台地の北西部で合流し木
 
川となります,この合流地点の河川は太古の断層崖によって
 
形成され山あいを流れる峡谷は奇岩,奇石によって美景を添
 
えることから,「岩倉狭」とよばれ,昔文人や吟行を楽しむ場所
 
となっていました。
 
句碑は地元の石匠によって奥の細道,300年記念として建て
 
れ,句は芭蕉の自筆を拡大したもので,原本は天理大学
 
図書館の所蔵と句碑の横の石塔に書かれていた。
 
又,江戸時代にはこの河川を利用して河舟が物資を運搬し,
 
伊賀の経済を支える動脈になっていた河川です。







2012/07/12 10:11:09|芭蕉の句
大垣 奥の細道むすびの地記念館 5
大垣迄600里, 約3400キロにおよんだ旅もむすびの地とし
 
8月21日(10月4日)大垣に到着しました。
 
奥の細道は芭蕉さんは人として生まれ,財がある,名誉があ
 
る,子供がいる,何が幸せで,何が幸福かを求める旅だと私は
 
思います。
 
その時代,人生50年芭蕉さんも晩年に近く江戸深川に住み慣
 
れた庵も引き払い,東北・北陸と旅立ちました。
 
冒頭文に月日は百代の過客にして,行かふ年も又旅人也・・・
 
と書かれ人生は旅そのものであるという,芭蕉さんの人生観が
 
表現されています。
 
大垣に着き始めて旅の目的が,宇宙大自然の営みの感動,
 
見知らぬ人との「一期一会」 又,その人間の心の中に潜む暖
 
さ,優しさではないでしょうか,奥の細道を読んで私なりに解
 
しまた,
 
 今も残る史蹟「船町港跡」 船着き場,







2012/07/06 2:18:51|芭蕉の句
大垣 奥の細道むすびの地記念館 4
奥の細道は西行法師や能因法師の足跡をたどり,大自然に身
                           のういんほうし
 
をまかせ大自然との出逢い,人との出逢いを求めて感じた事を
 
詠んだ旅でした。特に大垣には親しい俳諧友人も多く,戸田如
                                                            とだじょすい
 
水下屋敷での句会は有名です。
 
当時芭蕉さんも上船して川を下り桑名へと旅立つたと思われる
 
船町港跡が残されて,大きな木造の常夜灯横の石畳を下れば
 
江戸代えと錯覚して行く想いです。







2012/07/01 10:32:07|芭蕉の句
大垣 奥の細道むすびの地記念館 3
元禄2年(1689)8月21日芭蕉翁は、およそ150日におよぶ
 
奥の細道、旅の終わりの地を大垣とえらび、むすびの地としま
 
た。
 
大垣には多くの俳諧の大切な友人がいたからだと思います。
 
又旅の途中、曽良と別れた芭蕉を敦賀まで大垣の芭蕉の門人
 
路通が馬で出迎え長い旅路せいか芭蕉翁も疲れが出て1週間
 ろつう 
 
ほど床に付いて休んでいました。その時、紀伊長島から曽良が
 
駆け付け芭蕉翁と面会しています。