なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2008/06/27 1:02:22|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 3
  西嶋八兵衛の碑を向かい合って、西嶋家一族
 
の碑は幾つも整然として並んでいる。 碑の後
 
ろは大きく育ちすぎた楠木が在った。また私が
 
整地して、瀬戸内海にそそぐ香川県高松市に
 
流れる 香東川(ごうとうかわ)を想像してミニ庭
 
園にする。 八兵衛さんは香東川の氾濫による
 
水害を防ぐために、付け変え工事を着工する。
 
改修後にその豊富な伏流水を利用して「紫雲
 
山」の麗に、日本庭園として建造され、明治7年
 
県立公園「栗林公園」として誕生する。もともと
 
林公園は香東川の河床であり、明治4年11
 
藩を廃して香東川から東を除いて、県名を
 
「香県」として採用される。







2008/06/24 2:10:29|上野城
伊賀の大地震
 
文献によると、1854年6月15日 安政の大地
 
伊賀に発生。13日の正午頃崇広堂(現在の
 
丸之内)の東側道路で、幅1尺、長さ70間ほど
 
の地面は裂けて、水は噴出し小震が何度もあ
 
つた。15日の午後2時過ぎ、大音響と地軸も崩
 
れるような地震はあり、家々は一瞬に倒壊した
 
さながら生き地獄とかした。余震は引き続きや
 
まず、5時頃西の方で炎は見え、東・西大手門
 
の石垣が崩れ、番人4人死亡、城内の建造
 
物やその西の御殿は大破、茶室燕庵も崩壊、
 
北谷側の長屋は3間ばかり地すべりして下へ崩
 
れ落ちた。町方では古い家はほとんど全壊、
 
壊も多かった、この時の死者は約995人と伝え
 
れている。わが町の死者4人、新町、鍛治町
 
魚町、小玉町では、家屋の倒壊率35%、福居
 
町、41% 幸坂町近辺は85%の家屋は被害
 
に遭う、余りにも者は多いため、服部町の服
 
部川河川敷で火葬する。その場所に石積みの
 
法華経の碑を建て死者を弔う。碑のたもとに松
 
の木3本植え、その場所を「3本松」とった。
 
現在、碑は南100mの所に移動している。
 
 







2008/06/22 0:21:02|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 2
香川県の満濃池(日本最大の池)は弘法 大
 
師によって821年に完成するが、何回も決壊
 
て池は農地 となる。1628年、西嶋八兵衛
 
年5ヶ月かけてこれを修復するが、1854
 
6月に起きた「安政の大地震」で又決壊す
 
る。現在、池の堤の高さは上野城の高石垣と
 
同じ高さ32m、周囲20km貯水量1540万ト
 
ン。私は西嶋八兵衛翁を偲んで満濃池の形
 
をした池を想像してミニ墓地整備をし、地元で
 
り知られていない偉大な土木技術者を顕
 
する。 大正天皇の即位に関係した即位運
 
が香川県・三重県で進められ、大正4年11
 
三重県津市県庁で盛大に式典が挙行され
 
翌年5年上野正崇寺で 伊賀史談会によって
 
田中善助氏も参列し盛大に式典された。石塔
 
には「贈正五位西島八兵衛之友 君之墓」と
 
刻まれている。







2008/06/21 1:01:46|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛について 1
西嶋八兵衛(1596〜1680)三重県伊賀市
 
上野紺屋町 正崇寺に眠る、延宝8年3月20
 
日84歳。藤堂高虎、高次、高久と藤堂家三代
 
に仕えた武士。高虎の書記官として仕え全国
 
に城郭など築く。又その才能は戦場だけでは
 
無く、農民などの生活を護る土木工事にお
 
て功績を残す。お寺の正門の右端に伊賀市
 
では見られない石で、石塔に「西島八兵衛墓
 
地」と刻まれている。水の守護神として津市高
 
茶屋 水分神社(みくまりじんじゃ)で現在も祭
 
られている。







2008/06/09 1:25:51|西嶋八兵衛
名張美旗新田、開拓者
加納藤左衛門(1609〜1673)は1654年、
 
伊賀国南部の原野、小波田野(現在の名張
 
新田、西原)の新田開発を計画して土木技術
 
家、西嶋八兵衛の協力と伊賀国中より加勢
 
夫13000名外大勢の人により、町並みに民
 
屋200戸建て、新池2築堤、田畑70町歩を
 
植え付ける、しかし決壊など繰り返し、難工事
 
の末14キロ余りの用水路を開いた。以後、
 
新田村は「初瀬街道」宿場型集落として発展
 
する。伊賀市寺町、大超寺に眠る