なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2008/07/04 0:36:57|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 8
八兵衛の行った治水技術は、労力と工費のか
 
さむ堀溜池を避けて、利水度の高い麗池築造
 
に努力した。多くの池は防災的目的に使われ、
 
今日の「多目的ダム」の発案者とも思われる。
 
香川県は少ない雨である上に、山は浅いため
 
河川が常時枯渇し、灌漑には殆 ど役立たず、
 
一たび集中豪雨があると河川は何れも 氾濫し
 
一気にして人家、田畑を失った。香川県の年間
 
雨量は全国一雨量が少なく、八兵衛の記録に
 
よると1626年、旧暦4月より7月まで95日間
 
雨が全く降らなかった。香川県農林部土地改良
 
課が昭和30年に調査すると 18,606の池が
 
ある事は判った。更に小さいものまで含めると
 
その数は増すと思われる。







2008/07/01 1:35:11|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 7
西嶋八兵衛は1625年、30歳の時より15年間
 
讃岐生駒藩に客臣として仕え、「満濃池」「三谷
 
池」「一の 谷池」など、大小90余りの池を造る。
 
生駒正俊(藤堂高虎、久芳夫人の娘婿)の時
 
讃岐の農業生産高は約7万石に過ぎず、八兵
 
衛の努力の結果。高俊の時代(1639)には1
 
万石を超える出来 高になった。しかし生駒家お
 
家騒動で生駒家は幕府 により改易され遠く奥
 
州出羽国(秋田県由利郡八島町)左遷され、讃
 
岐 松平家は1642年より11代228 年間続い
 
た。八兵衛も妻の実家、藤堂仁右衛門家に戻り
 
実家は津の城代家老を務める家柄であった。
 
やがて1645年、八兵衛は江戸で二代目藩主、
 
藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役と
 
なる。







2008/06/30 0:01:16|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 6
昭和37年7月7日、大禹謨遷座の神事が、薬
 
師如来傍の前で執行され、伊賀から村治円次
 
郎氏(当時81歳)と稲住佳生両氏が猛暑の中、
 
参列され、原碑は栗林公園内、商工奨励館内
 
に安置する。村治氏は西嶋八兵衛の大禹謨
 
字とあらためて確認され「西嶋八兵衛之友翁
 
真筆無疑者也」と書き残された。その後地元
 
志による、「大禹謨顕彰会」を発足、又現地
 
「大禹謨由来碑」を建設。村治氏の自宅と私
 
家は100mも離れていなく、円次郎氏の子と
 
は親しく挨拶などしていた。しかし若からし私
 
は偉大な人とは知らなかった。 平成18年10
 
バス旅行で満濃池を視察に行くその時、満濃池
 
土地改良区、総務課長宮本氏は多忙の中満濃
 
池の案内をしてくれる、次に栗林公園にった
 
が、事務所の人では無く、公園前の土産屋の
 
人が案内をしていたが、土産を 早く買っもら
 
いたいのか? 早く池の案内だけで「西八兵
 
衛」の名前や「大禹謨碑」の場所も知らかった
 
残念であつた。







2008/06/29 1:31:28|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 5
「大禹謨」とは、黄河の水を治めて、中国の位に
 
ついた、偉大な聖人禹王のはかりごと、極めて
 
遠大なる精神。 大正元年、香東川の大洪水が
 
あり、川底から埋没していた石を発見、字が刻
 
んで誰かの墓かも知れないと思い、薬師如来
 
の傍に据えてあつた。しかし50年間誰も知らな
 
った。西嶋八兵衛の研究家、藤田勝重氏と
 
重県文化財保護委員会委員長、伊賀市上野
 
治町、村治円次郎氏(西嶋家と遠縁)の協力
 
再確 認され、歴史は実現され世に広がる。







2008/06/28 1:47:36|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 4
上野市教育委員会の協力を得て、「大禹謨」に
                                                たいうぼ
いて写真を見たり、本を見ながらミニ庭園に
 
く似た、レプリカ を設置する。近年、墓地は市
 
文化財の指定を受けた。本物は普通の川石
 
58センチ、横20センチ、重 量39.6kg、
 
彫り深く「薬研彫」楷書で青蓮院の筆法、川
 
の付工事の安全を願って、八兵衛さんが
 
碑を建る。工事は中国の聖人、夏(中国の最
                                                                                    か
の王、山西省に都を置き439年続く)の
 
禹王黄河の氾濫を治めた人だと知って見習
 
って石に刻む。又孔子も、禹王は文句のつけよ
 
無いと「論語」に、書 かれて、黄河の水を治
 
る仕事に当っていた時は、8年間自分の家の
 
を通っても家に入らないで、公事に精励した
 
伝えられ、その事蹟は偉大で、中国の聖人と
 
て今も尊敬されている。日本では8代将軍徳
 
吉宗だと私は思う。禹を治水の神として祭る
 
慣が、京都の鴨川において早くからある。