なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2008/07/24 1:34:39|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 13
 八兵衛は用水路を守る後々の為、日常的な
 
検・保守管理を箇条書に書き定め、若庄屋組
 
頭を置き何か事が在ると、各村々の庄屋組頭
 
相談して補修させた。 その後、明暦4年(16
 
8)、延宝8年(1680)の2回、雲出井手郷中
 
「定」(雲出井水掟書)が出され、庄屋、年寄
 
その受書に署名押印して約束を守ることを明
 
示している。その文書は今も残されている。
 
いた事に現在も雲出井土地改良区の役員は
 
日軽トラツクで雲出川の取水口迄、水量やゴ
 
ミが詰まっていないか点検をしていると聞き、農
 
業用水を守る為素晴らしい歴史の重みを感じ
 
せられた。
 
八兵衛死後4年後、雲出井の郷民はJR高茶屋
 
駅の西南、古松そびえる丘、分水地点隣に「水
 
分神社」 を建立する。八兵衛宮とも言う昔は神
みくまり
前で雅楽を奏し獅子舞、相撲などして五穀豊穣
 
を祈った。又同地に明治42年顕彰碑「西嶋翁
 
遺功碑」も建てられ、又大正4年11月10日大
 
正天皇御即位の大典で「正5位」の位を贈られ
 
津市において盛大に式典がなされた。翌年上
 
野において伊賀史談会主催で 正崇寺に贈位
 
記念碑は建てられ、式典は行われた。 香川県
 
に於いては県下の功臣の霊を祀りて護国神社
 
境内に一社を建て、八兵衛も神位に加わる。
 
現在も「水分神社」において毎年4月19日には
 
神職、雲出井土地改良区その他、水に関係す
 
る人たちは寄り集まり、神事をしてから田植えを
 
始めている。







2008/07/20 1:59:36|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 12
 かくして雲出井が完成すると、八兵衛は慶安
 
年(1648)7月、雲出村庄屋・笠井又兵衛に
 
手を守る箇条書を送っている。
 
「其方事雲出川大井手守申付候ニ付諸事相定
 
条々」 それには8条からなる細かく書かれてい
 
る。たとえば原文には一、今瀬せきあげのかげ
 
ん第一に候、細々見廻り候て石俵くさり候は取
 
かへ、くずれ候所をば、つきなをし湯(水のこと)
 
流口へ川水よくのり候ごとく可念入事。付大雨
 
ふり可申気気色に候ば何時も湯流の戸をさし
 
可申候、此段戸木 加兵衛にも申付候間常々
 
相談可仕候事。 つまり・・・水の流れやすいよう
 
に、常に掃除して、大雨の時は板などで補強し
 
て水の流れを調節する事。 又戸木村の加兵衛
 
にも相談する事。







2008/07/16 23:35:57|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 11
 慶安元年(1648年 八兵衛53才)、津市久
 
居戸木で取水した水は、雲出川からの用水路
 
は山あいを、右へ左と蛇行して又、サイホン式
 
トンネルを抜け遠回りしてでも、水を津市高茶
 
屋の分水口迄、約13kmの水路を設けた 。私も
 
雲出川土地改良区連合会の事務 局員の人
 
願いして、全工程を案内していただく。水路
 
て回ると、八兵衛は水を護る為に現在でも
 
驚くほどのアイデアを使っていることが分かる。
 
用水路を遠くまで引き込む事や土地の高低差、
 
作付け面積の違いにより村によっては、農業用
 
水の利用度は違うため、水を平等に分水路で
 
分けるか、角度や開口の大きさを調整した。







2008/07/09 2:02:14|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 10
 1646年、八兵衛すでに51歳になっていた。
 
藤堂家二代藩主高次の命により、三重県一志
 
郡雲出(くもづ)村、本郷、長常、島貫、伊倉津
 
(現在の津市)は大旱魃にあい、戸木村(現在
 
の津市)雲出川の水を現在の高茶屋付近で、
 
3つに分水して14の村に引き込む 計画を村民
 
の代表者を集めてたてた。 まず測量で、どうす
 
れば土地の高低を測るか、苦労をする、その時
 
兵衛の奥さんの発案で同じ長さの竹の先に
 
灯を付け、夜はたいまつの明かりで高低を測
 
た。くぼ地は箱物を作り水を流す。杭を打って
 
蛇篭に石を 入れ詰める。水漏れはムシロで防
 
ぎ、川底には水は 漏れないように砂に石灰、に
 
がりを混ぜて、それをたたいて敷固める。又勾
 
配の急な所は川底に段を作り水の速さを調節
 
する。すごいアイデアはすでに在る隣の領地
 
水路と交差する箇所では、水は流れ込まないよ
 
うに、高地から川幅を広げて少しづつ、川幅を
 
狭くするサイホン式で水路の下をくぐらせた。







2008/07/04 23:15:28|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 9
 藤堂高虎(1630年10月5日、75才で没。江
 
上野東叡山に葬る)。時代は二代目藩主高
 
になっていた。天保3年(1646)藤堂藩の支
 
地の伊賀、伊勢でも、大旱魃(かんばつ)に
 
われ農村部の復興を目指し、江戸より高次、
 
八兵衛も帰国し、八兵衛は藩主の命を受けて
 
広い領地を視察に回る。 伊賀地域では29の
 
溜池を新設(白樫村、夏秋村、 中友生、やは
 
た、佐那具・・・主な伊賀地域全ての地で)14の
 
池を修理する。
 
正保4年(1647)山畑新田の開墾に亀井池を
 
造るが、江戸三老に提出した完成の伺い文書
 
が今も残されている。その時、新田造りの名人
 
加納藤左衛門(1609〜1673・大超寺に葬る)
 
の名前は出てくる。藤左衛門は承応3年(165
 
4)伊賀国南部の原野、小波田野(現在の名張
 
新田、西原)の新田開発を計画して、土木技術
 
家、西嶋八兵衛の協力と伊賀国中より加勢夫
 
13000名外大勢の人により、町並みに民家
 
200戸建て、新池2築堤、田畑70町歩を植え
 
付ける。しかし決壊など繰り返し、難工事の末
 
14キロ余りの用水路を開いた。以後、新田村
 
は「初瀬街道」宿場型集落として発展する。
 
は思うには同時に一度に溜池など新設修理な
 
ど出来ないと思う。八兵衛は讃岐で実践した経
 
験から線引きや計画書は作成するが、工事は
 
地元の豪族や加納藤左衛門の力を借りて実行
 
したと思う。同じ年には中伊勢の大河、雲出川
 
の開墾計画をする