なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2008/09/18 23:57:29|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 18
 奈良市古市町、城和奉行所跡地は小高い山
 
すそ野に在り、周囲は堀に囲まれていた。高
 
からは西の方角に生駒山、山を越えれば大
 
城。北へ10kほど行くと新薬師寺、春日大社
 
奈良町と続く。昔は砦の用に存在していたと地
 
形から見て想像される。古城二の丸屋敷(推
 
定)米蔵、番小屋など沢山存在していた。現在
 
長屋門跡地と、何度も改造しながら残る勘定
 
御蔵 と地形から見て、延々と続く堀の地形と
 
すかに残る石積跡が印象的だった。確信は
 
いが周囲には沢山の溜池はあり、これも八
 
衛は造ったのかと思うと夢は膨らむ。







2008/09/14 21:43:03|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 17
 奈良市古市に残る勘定方の現存する蔵。壊
 
れかけた土塀は、いにしえの深いロマンの歴史
 
を感じさせる。 城和加判奉行から伊賀加判奉
 
行と変わるが、後任の城和加判奉行、中小路
 
五郎右衛門がまもなく死亡。八兵衛は再度、城
 
和加判奉行に着任し古市に住む。 以後、延宝
 
5年(1677)81歳で退職するまで、通算 29年
 
間、城和加判奉行の職務につく。







2008/09/11 21:33:16|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 16
 城和奉行になり10年目、万治元年(1658) 
 
八兵衛63才安濃津城から伊賀奉行所に移る。
 
場所は伊賀市丸之内市役所正門前、現在の信
 
楽古陶館建物あたり当時は東大手門を入り
 
外堀の内側に住居が在り、西隣は侍大将。藤
 
新七郎の屋敷、城内は藤堂家一族か信頼さ
 
る人しか住居を持つことが許されなかった。







2008/09/09 23:36:38|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 15
名阪国道天理インターから北へ車で10分ぐらい
 
走った所(奈良市古市町)に、慶安元年(164
 
8)八兵衛52歳、城和加判奉行に任ぜられる。
 
(大和−奈良県・・山城−京都府、 藤堂藩領5
 
万石の領地) 同年、鉄砲者10人持つ。雲出井
 
開墾完成間近であり、実務は安濃津(現在の津
 
市)城で住み大和古市には出ていなかった。







2008/07/30 0:29:07|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 14
 平成10年11月、津市丸の内商店街振興組
 
合の人たちにより、津市国道23号線、横断歩
 
道橋、西側の真下に西嶋八兵衛の銅像を建て
 
る。八兵衛の銅像横には、たいまつを持った
 
「モチーフ」と「水の守護」の説明文が書かれて
 
いる。 説明文には「高虎に重用された八兵衛
 
は、干ばつに苦しむ地域に出向き、優れた土
 
木技術と努力によって、全国のまちづくりに多
 
大な貢献をしました。・・・・・ 水の守護として、土
 
木事業者、農業関係者、水商売の市民に崇め
 
られている」と書かれている。