なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2008/10/05 1:21:12|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 23
八兵衛の記録によると、前にも述べた伊賀上阿
 
波村大火と大和桜井町の大火災には藩の山林
 
を伐採して各町村から人夫、食料まで集め復興
 
に努めた。 資金の不足金は他の領地で金を借
 
り、高利を支払うことを戒め低利の資金を貸し
 
与えて之を救済し、或いは 山林中の樹根迄掘
 
り取る事を禁じ、禿山に木を植えて水源確保の
 
策を講じ、林業や農民保護に努めた。







2008/09/30 23:30:17|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 22
 「崇廣堂」は文政4年(1821)伊勢津藩第10
 
藩主、藤堂高兌の時代、 伊賀、大和、山城の
 
領地に住む藩士の子弟を教育するために創設
 
した藩校。 八兵衛は生涯多くの文書を書き残し
 
ている。たとえば 「公事裁許之控」は八兵衛が
 
任期中の公事をかなり詳細に小さな公事をも書
 
き控えた文献。  八兵衛の生涯について、延宝
 
年(1674、79歳)の「謹而覚書」。同8年(16
 
80、85歳晩年)「乍恐謹而 覚書」など何れも本
 
人自筆の履歴書ともいうべきのもで藤堂藩へ提
 
出した文献。八兵衛が死ぬ3月直前まで書き写
 
した。







2008/09/26 23:28:22|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 21
   昭和58年迄、旧上野市の図書館として使用
 
されていたには古くからの古文書などが保管さ
 
れていた。 「万大控」は八兵衛が1648年か
 
1677年までの29年間、城和奉行に勤めてい
 
た、伊勢、伊賀の藤堂藩政を八兵衛自身が筆
 
写に書き残した貴重な資料。 たとえば万治元
 
年(1658)の伊賀国山田郡上阿波村で大火が
 
あり、その救済記録などが「万大控」に詳しく書
 
き残されている。







2008/09/23 19:11:22|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 20
 私が思うには、50歳前後から沢山の文献を
 
書き残されたのは、生駒家の御家騒動で讃岐
 
での文献が多く喪失してしまった為だと思う。
 
しかし、「満濃池八兵衛改修前池内村の図」満
 
濃池古図は神社宮司、矢原家(満濃池は村で
 
あったころの庄屋、旧家)に残されている。寛永
 
10年「讃岐国絵図」は丸亀市、高木家に(生駒
 
藩に仕えた旧家)生駒高俊の書状など多く残さ
 
れている又、琴平町、金刀比羅宮にも、寛永10
 
年の同じ「讃岐国絵図」が寛永17年(1640)生
 
駒高俊より奉納されて現存している。神社、お
 
寺、旧家などにより、当時の八兵衛の業績は沢
 
山残されている。







2008/09/22 1:03:23|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 19
  八兵衛は書に特別の特技を持ち、青蓮院、尊
 
円親王 (そんえん)の流れを持ち、自ら西嶋流
 
とした。藤堂高次(二代目藩主)、藤堂大助(三
 
代目藩主、高久の幼名)の為に習字の手本50
 
巻を書いている。また「入木抄」(習字の手本)
 
を書く。 「万大控」(よろずおおひかえ)15冊、
 
「公事裁許控帳」 「西嶋家日記」各2冊「諸願諸
 
附等控帳」「役用覚書」 「城和御領宗旨改人数
 
総目録」「在津日記」各1冊その他俳句も楽しみ
 
「俳諧巻」4冊などの記録となって今に残り、こ
 
れらは現在西嶋家より寄託されて伊賀市上野
 
図書館に保存されている。