なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2008/11/06 2:08:24|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 28
「愛媛県、今治城」 津市、伊賀市において藤堂
 
高虎公入府400年記念事業は開催されている。
 
八兵衛はいかにして土木事業を学んだか。藤
 
堂高虎公の築城に従事して高度の設計図、工
 
事監督の筆記者として技術を習得したと思われ
 
る。
 
しばらくは、藤堂高虎公に付いて語ろう。
 
藤堂高虎は黒田如水、加藤清正とともに、築城
 
の名手として知られているが、高虎の城は個性
 
的な特徴を持っている。
 
@港を抱え込む設計
 
     宇和島城、膳所城、今治城、津城、伏見城、
 
  江戸城など城 の中に港をつくり、水運や水
 
  軍の構えをした城づくり。
 
A枡形 {ますがた} や方形を多用する設計城の
 
  本丸は四角形の構造を基本とする、虎口と
 
  いう出入り口には内枡形という出入り口には
 
  区画をつくり門を設ける、この虎口の外側に
   
  角馬出という小さな区画を組み合わせ、
 
  の侵入を防ぐ。
 
 
B城のまわりには犬走りを作る
 
  石垣と堀の接するところに半間から二間の
 
  平地をつくり地盤を補強する。 ほかに高石
 
  垣、広い堀、郭の縄張りをして防御に強い
 
  町づくりをした。 
  
  
  







2008/11/03 23:25:35|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 27
 「延宝書上」によると八兵衛は城和奉行を
 
勤め29年間とてもいそがしく、伊賀、
 
大和、山城の地図作製に力を入れ織田藩宇
 
陀(織田信長の弟、織田有楽かいり
                 うらく
ゅう、芝村藩)岩田藩、丹波市、在の
 
理市など沢山の領地は入り込んでいた。
 
山林境の交渉に努め、人跡少ない山中に
 
入って国境を正す。又領国の遺利(取り
 
分)など八兵衛が仲裁に入るだけ争いご
 
とは無くなり溜池の新設、荒地の開墾を
 
推し進めた。光陰を惜むあまり日常外に出
 
るときは、忙しい弁当を持ず、炒り豆一握
 
りを袂に入れかじりながら昼食をしと言
 
われている。







2008/10/16 0:46:39|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 26
  敷地の左側、現在崇廣中学校(武道場)と右側
 
(文学場)の間は溝で仕切られていた、現在も補
 
修しながら石積が残る。八兵衛の几帳面な人
 
柄が残る手紙「乍恐謹而覚書」(おそれながらつ
 
つしんでおぼえがきしよ)。晩年85歳の時、遺言
 
状とも思える手紙を藤堂仁右衛門(津城家老)
 
堂釆女(伊賀城代家老)外2名に出している。
 
原文一部に
 
 一、城和御領分中残米は村々の蔵にわたくし
 
符をつけ村々の庄屋共預り申候との判帳取置
 
申候間少も相違御座有るましく候、金銀の残分
 
は右下代共に預置申候御勘定前とどこをりなく
 
さし上申可く候事。残った米はそれぞれの村々
 
蔵に私が封印をつけて村々の庄屋殿に預け
 
判取り帳に印を押し少しも間違いありません、
 
金銀の残り分は庄屋の人に預けました。
 
 一、せがれ十郎右衛門儀、申し上げるに及ば
 
ず候えども・・・・何時の時代でも子供の事は心
 
配で、藤堂家につかえる斡旋願いを出している
 







2008/10/13 0:31:29|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 25
         「現在も残る、表玄関と講堂」
 
武士の子弟はこれらの建物で、文武両道の修
 
練や、武士としての心構え作法など学習した。
 
大和留学所、兵学寮が存在して、遠く笠置、加
 
茂、八兵衛の奉行所が置かれた奈良市古市
 
町、桜井、天理からも多くの子弟が学んだ。又
 
武道場には各流派の部を設けて専門の先生の
 
稽古を受けた。
 
★軍馬(神妙流) ★撃剣(新陰流、若山流、戸
 
   波流) 
 
★柔道(関口流、楊心流、実光流)  ★鍵鎗(内
 
    海流)
 
★馬(森内流)  ★弓(日置流) ★素鎗(無辺流)
 
★十文字鎗(高田流) ★薙(知新流) 
 
  寄合稽古場や広い馬場などが存在した。







2008/10/11 2:23:48|西嶋八兵衛
西嶋八兵衛 24
創建30年後、安政の大地震(1854)で崩壊。再建
 
した崇廣堂の全景。敷地面積約2635坪、武道
 
場は左側、武道場は馬術、剣術、槍術、柔術な
 
ど各流儀・各流派の練武場・兵学寮からなる武
 
場が設けられていたが現在は崇廣中学校にな
 
っている。
 
表門(弁柄塗で「赤門」として親しまれている)、
 
表玄関、堂(7間4面の入母屋造)、台所、土
 
蔵、中庭が残る。当時の約40%となり保存さ
 
ている。