陽だまりの街の『グループホーム』
その建物の扉を開けたとき、まさ(66歳)は一瞬、新築のビジネスホテルに迷い込んだかのような錯覚を覚えた。
廊下に並ぶ十の部屋。扉の向こうには、真新しいエアコン、清潔なトイレと浴室、ゆったりとしたベッド、そして温かみのある木製の家具が、まるで最初からそこにあるのが当たり前のように美しく整えられていた。
「素敵でしょう。みんな、ここが『自分の家』。お気に入りの場所なんです」
振り返ると、柔和な光をまとったような女性管理者が、いたずらっぽく、だけど誇らしげに微笑んでいた。
その人といくつかの言葉を交わしたとき、まさは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。初対面のはずなのに、まるでずっと前から知っていたかのように、二人の心の波長がぴたりと重なり合う。
「あの……」 まさは、ずっと心に抱いていた問いを、そっと投げかけてみた。 「ここに暮らす皆さん、いわゆる『障がい』と言われるものを持つ方々と、私たちは、何が違うのでしょうか」
管理者は、まっすぐ、まさの目を見つめ、迷いのない声で言い切った。
「違いなんて、どこにもありません。みんな一緒ですよ。人間だもの」
彼女の声は、初夏の風のように穏やかだった。 「みんな、この世に生まれてきて、幸せになりたいと願っている。その思いの、どこに違いがあるというのでしょう? 人は誰だって、年齢を重ねれば老いていくし、いつか誰かの助けが必要になります。健康な人だって、明日は病気になるかもしれないし、また治るかもしれない。グラデーションの中にいるだけなんです。それをわざわざ線引きして、名前をつける必要なんてないと思いませんか?」
その言葉が、まさの胸にストンと落ちた。と同時に、視界がじわリと滲んだ。 こらえようとしたが、温かい涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
ずっと言葉にしたかった、そして誰かに言ってほしかった答えが、ここにあった。 ここにあるのは「施し」ではない。人間としての当たり前の尊厳と、深い愛。まさの心に、かつて学んだ古い言葉が浮かんでいた。
『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』
人を思いやる「仁」、人の道にかなう「義」、敬意を払う「礼」……。そのすべてを完璧に極めることは難しくても、この家で、この人たちと共に過ごす時間の中でなら、その一文字だけでも深く、深く体現できるかもしれない。まさは心の中で、そう強く誓っていた。
それから数日後、まさの、夜勤が始まっていた。
夜のホームは、静かで、どこか神秘的な空気に包まれる。 みなさんは、それぞれの個室で、自分の時間を過ごしている。好きな音楽を聴く人、お気に入りの お宝をベッドサイドに飾って眺めている人、ただ静かに眠りについている人。
巡回をしながら、まさは一人ひとりの部屋の前に佇み、そっと心の中で声をかける。 (今日も一日、お疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね)
ある夜、少し寝付けない様子の入居者の男性が、ベッドに座っていた。 まさはそっと静かに寄り添った。言葉は多く交わさなくても、お互いの体温と、窓の外から聞こえる虫の音だけで、十分に通じ合えるものがあった。
「ここは、いいところ」 男性がこころでぽつりと言った。 「うん、本当にいいところですね」 まさは微笑んで応えた。男性は、まもなく入眠された。
この場所は、昼の太陽が沈んだあとも、夜勤の世話人たちが灯す「心のリレー」によって、優しく照らされ続けている。
夜明け前、東の空がゆっくりと茜色に染まり始める頃。 まさは窓辺に立ち、新しく始まる一日を見つめていた。
ここにあるのは、特別なことではない。ただ、人間が人間として、お互いを愛おしみ、支え合って生きるという、いちばん根源的な「人情」の風景だ。
「おはようございます。」 朝、交代のスタッフと管理者がやってきた。 「おはようございます。皆さん、よく眠られていましたよ」
まさの顔には、一晩の疲れを感じさせない、晴れやかで前向きな笑顔が浮かんでいた。 この『あぽろん』という太陽の街で、まさは確かな幸せの形を見守り、そして自らもまた、大きな愛に満たされていくのだった。
「人の役に立てることで、自分自身も助けられている」
この言葉こそ、まさが管理者さんと共鳴した、あの「根源的な愛」そのものだった。誰かを支える手が、実は自分の心をも支えている。人間の営みのいちばん美しくて温かい循環が、まさの想いの中にすべて詰まっていたのです。