ショート・ショート 従順な機械と、不完全な頭脳
その会社には、燦然(さんぜん)と輝く『偉大な理念』があった。
それは額縁に入れられ、ロビーの一番目立つ場所に飾られていた。新入社員として入社したばかりの男は、毎朝その前に立ち、うっとりと目を輝かせたものだ。
「わが社は、全宇宙の幸福と、たゆまざる利益のために存在する」
先輩たちも、みな同じ顔をしてロボットのようにきびきびと働いていた。右を向けと言われれば全員が正確に右を向き、社歌を歌えと言われれば、寸分の狂いもなく声を揃えた。男もまた、その洗練された集団の一部になれたことが誇らしかった。まるで、完璧にプログラミングされた優れた機械の一品になったような、心地よい安心感があった。
それから、長い年月が流れた。 男はそれなりの役職になり、会社の裏側もよく見える立場になっていた。
ある日、男は気づいてしまった。自分たちが「全宇宙の幸福」のために生み出していると思っていた利益が、実は、最上階の豪華な部屋にいる社長の、たわいもない自惚れと勘違いを満足させるためだけに消費されているという事実に。
社長は、自分が全知全能の神にでもなったつもりでいた。 「私が右と言えば、地球の自転すら右に回るのだ」と、大真面目で信じているらしかった。
男が若かった頃なら、何も考えずに「その通りでございます!」と拍手を送ったことだろう。だが、中年になった今の男の頭脳には、長年の経験という名の、余計なデータが蓄積されすぎていた。
男には、はっきりと分かっていた。 「社長の言う通りにこのプロジェクトを進めれば、来月には莫大な損失が出る。会社は傾く。ここの数式を少し変えるだけで、すべては解決する。それが正しい答えだ」
しかし、男は発言を躊躇(ためら)った。口を焼き切られたロボットのように、言葉が喉の奥でつかえて出てこないのだ。
かつて男が憧れた「右へ倣え」のルールは、今や強力な見えない壁となって男を縛っていた。
もしここで、正しい答えを口にしたらどうなるか。 社長のプライドは傷つき、自分は「不具合を起こした不良品」として、たちまちシュレッダーにかけられるか、窓際という名の廃棄物置き場へ送られるに違いない。
「正しい答えを知っていること」と、「それを口にすること」の間には、底なしの深い溝があった。若者は何も知らずに飛び越えられるが、中年の男には、その溝の深さが正確に測れてしまうのだ。
「……本日も、社長のご方針は完璧でございます」
結局、男はそう言って頭を下げた。心の中の複雑な歯車を、きしむような音を立てて無理やり回転させながら。
オフィスを出ると、夕暮れの街が広がっていた。 男は家路につきながら、ふと思った。
この社会という大きな機械の中で、本当に狂っているのは社長の頭脳なのだろうか。それとも、答えを知りながら沈黙を選び、明日もまた従順なネジとして働き続ける、自分の方なのだろうか。
男のポケットの中で、会社の『偉大な理念』が印刷された手帳が、冷たく静かに収まっていた。