なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2013/07/14 10:24:38|スリランカの旅
テレビでスリランカ紹介される
13日夜9時から「世界ふしき発見」でスリランカの

事が紹介されました。5年続いた内戦も終わり現在

経済成長率は8%だそうです。

私も何度もスリランカ訪問していますが、東部州トマ

ンコマリや北部州ジャフナの事は始めてしりました。

何と言っても歴史があり自然がいっぱいです、1年

ほど前にブログで書きましたが日本とスリランカはと

ても親密な国です、テレビで大統領や大使が言って

いましたが日本の戦後経済成長はサンフランシスコ

講和条約の時、スリランカ大蔵大臣の演説があった

からと言っても過言では在りません。

2年前東京代々木公園でスリランカ フエステバルで

大使とお会いしたことがあり少しお話しました。又、

今年3月スリランカから帰国の時偶然にもネコンボ

空港で大使とお会いしアイボアーンと挨拶すると大

使は逆にこんにちはと日本語で挨拶されました。大

使はスリランカ海軍のトップで退役され日本の大使

として活躍されています関係上、帰国の時は付き添

いに海軍の白い制服を着た人が6〜10人ほどお迎

えでした。


☆スリランカ国旗 
☆スリランカ初代大統領(1951年当時大蔵大臣)







2013/07/10 0:57:47|西嶋八兵衛
禹王サミット
6日 四国高松市栗林公園で第3回全国禹王まつ 
                                                              うおう
り「禹王サミツトin讃岐・高松」に参加しました。

伊賀市ではあまり知られていませんが、高松では西

嶋八兵衛が江戸時代 香東川の改修工事をして治水
                                                                 ごうとうかわ
の恩人として香川県ではよく知られています。      

西嶋八兵衛が川の安全工事(1624〜1645)

を願って、中国の夏王朝時代治水に優れた「禹王」

にあやかろうとして「大禹謨」と西嶋八兵衛が石塔に
                     だいうぼ
自ら書きました。

それから時代と共に忘れられていましたが今から

100年前に発見され、50年後その石が栗林公園

に置かれてました。

☆栗林公園正門前で記念撮影







2013/07/02 1:11:52|スリランカの旅
9回目のスリランカの旅 7

今回スリランカ訪問の一つに日本のラジオ体操を幼稚

園園児に普及させたい大きな夢を抱いております。

前回スリランカ訪問の時日本からソニーDVDプレヤー

とラジオ体操動画CDを持参、テレビは現地でパナソニ

ック32インチテビを購入。

まず初めに保母さんにテレビを見ながら2.3回指導し

ました。

今回運動会の時その成果を見たのですが、まだ不

十分で今後何度もスリランカ訪問するたびにラジオ

体操を覚えるように指導して行きたいとおもいます。

 








2013/06/28 9:13:45|なべ重 つれづれ草
中井君おめでとう
6月25日(火)サンピア伊賀ホテルで中井洽君の旭日

大綬章叙勲記念受賞 祝賀会が開催されました。

伊賀市長、名張市長、高橋参議議員、伊賀名張後援

会会長、祝賀会に著名な人達がより受賞のお祝いに

集いました。

中井くんと私は同年で幼稚園、小学校、塾と幼馴染で

又奥さん順子さんともPTAの役員していた時10人

ほどで出雲大社に親睦旅行の思い出も有りました、自

宅の建て替え工事の時私の家の近くに仮住まいをし

中井くんの子供、公一君と光ちゃんと奈良県二上山に

私の子供たちとハイキングに行った事もあり、なにか

友人として赤い糸で結ばれているようです、大人にな

っても毎年1月に同年会の集いがあり幾つになっても

幼馴染は良いものです。







2013/06/23 10:47:48|芭蕉の句
芭蕉 6月の句

よく言われる言葉に「いずれがあやめか、かきつば

た」菖蒲と杜若の花がよく似ているから芭蕉翁は杜

若の花と水に映る影に変えて句を詠んと思われる。 

芭蕉翁の句の中に遊び言葉がよく見かけます。  

当時、芭蕉は藤堂新七郎に仕え宗房と呼ばれてい
                                                                                            むねふさ
ました。

主公良忠(蝉吟)が京都の北村季吟に就いて俳諧を
      よしただ  ぜんぎん                        きぎん                  はいかい

学んでいたので、従って小姓であった宗房もその影

響を受けて和歌や俳諧など遊び言葉を学んだと思わ

れます。