なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2009/09/17 22:34:51|上野城
上野城の外堀 発見 7
東大手門跡地に伊賀市県庁舎(6階)のよ
 
うな建物が、駅前再開発事業で計画されて
 
いる。地上5階、地下に大きな駐車場。
 
「地下に外堀の石垣は眠っている場所に」
 
地下に駐車場を造らなくても「丸の内ルネ
 
サンス」が計画されている。会議所跡地か
 
ら西へ約200mほどの区間、個人の駐車
 
場経営や私有地の空き地を一本にまとめて
 
約200台ほどの駐車場を造る計画。
 
 1階に銀行は入所する予定をしているが
 
地下の石垣をシリコン剤で固めて、足元に
 
石垣の見える、観光施設設ける。又雨水を
 
地下に溜めトイレに再利用する。地下に銀
 
行の一般業務と金庫を、1階は受付業務と
 
自動振込機のみで充分。城下町に適した3
 
階建ならば、費用も安く工期も早い。行政
 
はなぜ無駄な費用を掛けるのか、鳩山内閣
 
なら疑問に感じるだろう ?
 
 
 







2009/09/15 1:31:04|上野城
上野城の外堀 発見 6
    明治35年頃の西大手門
 
東大手門より西へ約500mの所に、西大
 
手門は明治40年頃まで存在いていた。
 
外堀の橋を渡り、約4mの石垣から左に入
 
り、鉄枠の門から城内に入る頑丈な門だ
 
た、明治に入り倉庫として使用されてい
 
老朽化の為解体される。
 
 
 
 
 
 
 







2009/09/11 0:06:46|上野城
上野城の外堀 発見 5
      福井健二氏 提供  画像クリック
 
上野に400年前に城を中心とした、近代
 
的な都市国家は存在していた。
 
藤堂高虎は本丸を中心に高石垣の内堀、外
 
堀には10塔の櫓(やぐら)を建て、東西
 
大手門を設けた。
 
現在駅前再開発で発見された所は東大手門
 
の跡地。
 
東西に本町筋、二ノ町筋、三ノ町筋、南北
 
に中ノ立町、西ノ立町、東ノ立町(現在の
 
銀座通)その地域しか商いは出来ない決ま
 
りを定め、商業は栄え三筋町の各町には
 
んじり、印しを作り鬼行列も参加して商い
 
の象徴として、に一度だけ上野天神祭り
 
の時大手門から入ることは許され
 
よく忍町に忍者は住んでいたかと、聞かれ
 
が、お城に勤める侍屋敷が沢山存在し
 
ていた地域。
 
忍町におもしろい場所はある、中ノ立町通
 
忍町、途中に急に道幅の広い場所あり、上
 
級武士はで登城するので道幅が狭い為、
 
籠の廻り変えをする道を広めた。
 
鉄砲隊は住んでいた、鉄砲町。
 
私の家は魚町、隣の町は鍛治町、何れも水
 
を沢山使用する為、地下にはコンコンと湧
 
く地下水脈はあり今でもその井戸水を使用
 
している、又現在も酒蔵はその水を汲み上
 
酒を製造している。藤堂高虎は大自然の
 
地形を読み取り都市国家を建設した偉大な
 
人だ。伊賀市の行政の人もバラバラな都市
 
計画では無く、歴史を読み取り総合的な考
 
えで城下町にあった建物を建て、無駄の無
 
駅前再開発計画をして欲しいと私は思
 
 
 







2009/09/04 1:33:04|上野城
上野城の外堀 発見 4
        福井健二氏より提供 画像クリック
 
  明治20年当時の東大手門と門の見取り図。
 
 
西、東大手門とも多聞櫓は幅三間(約5m)に
 
二十一間(38m)で両袖に七間(13m)の袖多
 
聞を持った巨大なやぐら門であった。石垣の高
 
さは二間強(4m)で、形式は枡形門、写真で見
 
ると石垣の上の建物中に、写って人を見ると如
 
何に大きな建物か解かる。外堀の幅は約11m
 
文献によると、伊賀地方を襲った、安政の大地
 
震(1854年6月15日)午後2時過ぎ大音響と
 
地軸も崩れるような地震は発生、両大手門の石
 
垣は崩れ番人4人が死亡、城内の建造物や西
 
の御殿は大破。町方では古い家はほとんど全
 
壊、半壊も多かった、その時の死者は995人と
 
伝えられている。
 
確かでは無いが現在発見された、外堀石積み
 
3m、崩壊した大手門も修築され明治に残り、
 
文献に残る棟札で確信できる。約400年前高
 
虎によって造られた、外堀石積み5m だから
 
石積みも違うと私は思う ? ?
 







2009/08/30 1:47:22|上野城
上野城の外堀 発見 3
                 画像クリック
 
新聞で発表する前から外堀後から沢山大きな
 
石発見されていた、一部の石は上野公園に野
 
積みされ、現在の上野城の東に筒井定次(15
 
85)が築城した城は存在していた。台所、味噌
 
倉、炭小屋など多くの部屋は設けられていたが
 
小田村から出火した火災で責任を取り藤堂高
 
虎の時代に移り城は廃墟となった。
 
出土した大きな石は筒井城、石垣の補修に使
 
われ、多くの石は上野商工会議所跡地に沢山
 
眠っている。出土した石垣は江戸時代の石積で
 
は無いが、外堀は存在していた事は事実です。