関西本線の名古屋から湊町間が、全線非電化だった半世紀ほど前。鉄道100年に始まり、湊町奈良間電化を控えて、空前のSLブームが巻き起こった。平成の時代も終わり、懐かしさを通りすぎ伝説の世界に入った、あの時代にタイムスリップする懐古鉄なブログです。
 
CATEGORY:客車列車

2025/03/23 17:34:00|客車列車
山陰乗り鉄の旅6

1980(昭和55)年8月28日(木)

当日の松江地方気象台、6時の気象データは、気圧1014.0hPa。気温20.9℃。南東の風。風速1.2m/s。雲量10-。

左) 玉造温泉駅で、1番のりばに停車した列車内から、2番のりばから発車した列車の最後尾ナハネフ22を撮ってあった。このコマを読み解くと。

だいせん5号の玉造温泉駅の発車時刻は6:13。終着大社には7:20着。
さんべ 6号の玉造温泉駅の発車時刻は6:15。終着米子には7:05着。

玉造温泉駅で、急行さんべ6号の車内から、先に発車した急行だいせん5号を撮ったのだと仮定してみた。

山陰乗り鉄の旅5、末尾の以下の記述のように、

その後、何処かの駅に着き、翌日の乗り継ぎまで4時間ほど寝られる、と思いつつ待合室の造り付けベンチに横になった、のも覚えていた。

1973年の時刻表を見ると、長門市20:41発の最終の益田行があり、益田着は22:48。さんべ6号の益田発は3:05。乗り継ぎ時間は4時間ほどで、この両列車に乗った可能性が非常に高まった。

長門市駅から先は、山陰本線で下関方に向かったか、美祢線に乗った可能性も考えたが、山陰ワイド周遊券の西果ては長門市駅だと分かり、何処かの駅とは、益田駅に引き返したのだと、ほぼ確定した。

中) 6:20頃、玉造温泉駅から乃木駅に向かう、さんべ6号の編成後部の自由席の12系車内からの撮影。穴道湖半の道路は国道9号当初は、DLの煙の流れが不自然だと思いつつも、ナハ21の固定窓に気づかず、だいせん5号に後補機が付いた様子。を撮ったと思い込んでいたのだが。

右) 長門市から乗った益田行最終の旧客車内にて。右上は、左写真の上部に写った吊り下げ広告を拡大。尾道の千光寺公園の遊歩道文学のこみちに立つ 林 芙美子 文学碑からのようだ。右下は、6:04頃、さんべ6号が宍道駅に停車中の記念撮影。左が進行方向の松江方。

さんべ6号が終着の米子駅に近づくと、乗り鉄の旅も飽きてきたのか、伝説の弁当箱に火を入れて、今となっては考えられない至福の趣味を始めた。

つづく。

 






2025/03/08 16:19:00|客車列車
山陰乗り鉄の旅5

1980(昭和55)年8月27日(水)

当日の萩測候所気象データ 15時は、気圧1010.8hPa。気温25.6℃。湿度79%。北北西の風。風速4.6m/s。雲量8。

「やまぐち号」を後追い撮影した後、津和野駅に戻り駅構内でC571を見た筈だが全く記憶がない。その後、夕方に青海島(おおみじま)へ行って観光船に乗って波が高く外海には出なかった、のはしっかり覚えていた。

中) この記憶を頼りに、全国港湾海洋波浪情報網(ナウファス)から日付を特定すべく過去の波浪データを調査した。山口県長門市の青海島に最も近い観測地点は、同じく日本海側の福岡県北九州市の藍島(あいのしま)港で、1980年8月のデータを編集・加工して、グラフを作成してみた。

8月8日から9日にかけて、青色の有義波高 H1/3が1mを超えて(左赤丸)いて、山陰乗り鉄の旅1では、この日だったと確定してしまった。が、実際には、緑色の有義波周期 T1/3が8s近い(右赤丸)8月27日だった。

右) 8月27日21時のアジア太平洋地上天気図。原典:気象庁「天気図」加工:国立情報学研究所「デジタル台風」100年天気図データベースのサムネイルを転載。台湾付近に1980年台風12号(NORRIS)があり、翌日に福建省に上陸、後に熱低になり東に向きを変えて、山陽地方で消滅したとされる。青海島で波が高かったのは、その影響が出始めていたのだろうか。

左) 長門市駅の3番のりばで、萩方に向けて撮った「レッドトレイン」こと50系客車。客車区名の広がギリ写っているのみで、何処で撮ったのか中々判明せずだった。国土地理院のカラー空中写真1976/11/03に、ホーム先の駅員詰所らしきが写っているのと、ファンの方がほぼ同じ場所で50系を撮られてWebで公開されていて、それらを決め手とした。

津和野から長門市までの行程は以下。さんべ3号 熊本(20:35着)行以外は、そう変わっていないであろう、1973年時刻表からになる。
津和野12:57>13:37益田13:48>さんべ3号>15:30長門市15:40>15:43仙崎>青海島観光汽船の最終便>仙崎18:31>18:35長門市

夕暮れの仙崎駅からキハ35系で長門市駅に戻り、駅前でちゃんぽんを食べた、のは覚えていた。大阪駅からここまで往路の乗車距離は691.7km。
その後、何処かの駅に着き、翌日の乗り継ぎまで4時間ほど寝られる、と思いつつ待合室の造り付けベンチに横になった、のも覚えていた。

いよいよ復路へ、つづく。

 






2025/02/09 20:30:00|客車列車
山陰乗り鉄の旅4

1980(昭和55)年8月27日(水)

当日の島根県津和野アメダス観測所、正午の気象データは、降水量0mm。気温26.9℃。北北東の風。平均風速2m/s。

急行さんべ1号は、10:18に益田駅に到着。山口線に乗換えて、津和野に向かった。手持ちの1973年3月時刻表では、益田10:55発で津和野11:38発の小郡(現新山口)行があり、おそらく1980年になっても、あまり変わらずで、これに近い列車に乗ったと思われる。

1980年8月、SLやまぐち号の牽引機はC571、運行日は(水)(木)(土)(日)で、小郡10:00発、津和野12:21着(1979年運行開始時の時刻)。
津和野駅の改札を出て、南側の適当な撮影場所を探しながら、高岡通りあたりを30分ぐらい散策したようだ。小郡方へ2つ目の今市踏切を西向きに渡り、南側の路地に入って正面撮りすべく待ち構えた。

フィルムを巻いてあったと思い込んだのか、空シャッターになってしまい、慌ててフィルムを巻いて、振り向いて撮ったのが、中) の写真。左) の最後尾の煙突付きスハフ12は、後追い撮影できた。オハフ13は煙突なし。

右) 国土地理院のカラー空中写真、1976/10/30(昭51) 須佐 を加工した物。赤矢印の少し上が撮影ポイント。津和野駅の北側には、転車台と扇型車庫跡らしきが写っている。

いつかはリベンジして、正面撮りしたい所ではあるが、中) の写真には、正面撮りしている友人Rが写り込んでいる。何とか連絡をとって、残っていれば見てみたいと思う。おそらく当方が写り込んでいるはず。

 






2025/01/25 18:50:00|客車列車
山陰乗り鉄の旅3

1980(昭和55)年8月27日(水)

当日の松江地方気象台、6時の気象データは、気圧1007.7hPa。降水量は0.5mmに達せずの場合の0.0mm。気温22.6℃。西北西の風。風速4.1m/s。雲量10-。


だいせん5号は、6:50に出雲市駅の3番のりばに到着。最後部のナハネフ22を撮るべく、3~4分かけて200mほど米子方の、ホーム東端に向かった。

上) 2番のりばに6:57に到着する、特急おき1号、米子発で山口線経由の小郡行。枕木やホームに雨が降ったような跡があった。

中上下) 西向きに振り返って駅構内を撮った。3番のりばに、だいせん5号から変わる7:07発普通列車の大社行。2番のりばに、6:59発特急おき1号。1番のりばは、浜田発米子行のDL牽引の旧客レ。右隅の大きな建物が「一畑(ICHIBATA)百貨店」

この後、出雲市駅の改札を出て駅前に向かった。東側の電鉄出雲市駅と一畑百貨店を見て、在阪大手私鉄の百貨店ほどの規模では無いものの、地方私鉄の頑張りを感じた。

そして、7:38発の「急行さんべ1号」長門市~下関経由の小倉行に、益田まで乗るべく駅に戻った。

下上) 南側の留置線群に向けて撮った2,3番のりばの駅名標。
下左下) 2番のりばの大田市(おおだし)駅行キハ35 157(米)。

下右中下) 松江駅3番のりばに6:00ごろ停車中のナハ21の車内にて。右奥が進行方向の出雲市駅方。

つづく。

 






2025/01/10 18:42:00|客車列車
山陰乗り鉄の旅2

1980(昭和55)年8月27日(水)

当日の福知山アメダス観測所、(午前)1時の気象データは、降水量0mm。気温23.7℃。北北東の風。風速1m/s。

「だいせん5号」は、福知山駅の3番のりばに0:12に到着、0:39まで27分間の運転停車となった。

左) 到着後ホームに出てパタパタを撮った。よく見ると時計の針は0:14頃を指していて、定刻での到着だったもよう。4番のりばの案内は、0:36着で0:56発の普通夜行「山陰」(京都から山陰本線経由の出雲市行)ではと思われる。数分間並んで、互いに連絡した筈だが全く記憶がない。

大阪駅で発車が近づくと、車内はほぼ満席になり、4人がけのボックス席を3人で独占できると思いきや、発車直前に空いた1席に座る方が現れて、福知山で降りたのは覚えていた。

白制服の車掌さんと話している方や、跨線橋への階段を上る当方の前に座った方とは別の方、車内に少し空席がある様子が写っている。福知山や途中の停車駅で降りた方が、何人か居たのかも知れない。

夜行列車の黄金時代には、夜の始発駅では最終列車、朝の終着駅へは始発列車としての利用もあったらしく。座席車が連結されていたのは、寝台料金を節約したい方や、そういった方の為でもあったようだ。

大昔の関西本線で例えると、朝は急行大和の下り湊町行で出社して、夜は急行大和の上り東京行で帰宅する、に相当する。一般の通勤客が毎日往復の急行料金を払うのは中々大変。ところが、国鉄マンに支給されていたという精勤乗車証(全線パス)の裏には「寝台券、特別急行券、指定券、自動車乗車券は購入すること」の記載があったらしく、急行大和の自由座席車で日勤される方が居たとしても、不思議では無かったと思われる。

右) 福知山駅で他に撮ったのは駅名標だけで、跨線橋の向こうの和田山方に停まっている先頭のDL(おそらくDD51)は、撮りには行かなかった。

1980年当時、乗り鉄、18きっぱー、鉄をた、といった俗語がある筈はなく、「鉄道の乗車が目的の旅人」を何と呼んだかは思い出せない。強いて言えば、ブルトレマニア、周遊券トラベラー、いい日旅立ちファン、ディスカバージャパン愛乗者、だったのだろうか。おそらく、

今でも「遠くへ行きたい」の愛好家なのは間違いないと思われる。1970年から続く長寿番組というだけあって、数多くの動画がアップされているが、唯一と思われるアップテンポで汽笛入りのをリンクしてみた。

つづく。

 






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