2013/11/04 20:35:39|その他
わざとすべ〜夢の体験〜

本日11/4は上野市駅前ハイトピアグランドオープン わざとすべ〜夢の体験〜

そこで弊社も記念出展
 「勾玉つくり&篆刻つくり体験」
 「忍び日時計展示」
 「石灯篭・加工の実演」
 「石をたたいてみよう」
などなど、出展しました。

「勾玉つくり&篆刻つくり」にたくさんのご来場ありがとうございました。
皆さん、勾玉と石のはんこをゴリゴリと削って磨いて、とても個性豊かな作品が出来上がっていました。

「石を叩いてみよう」のコーナーでは、石の加工工程とその工具を展示したところ、興味が湧いてきたのか、意外と多くの子供たちに叩いてもらいました。

石を削ったり、叩いたり、将来の石屋さん候補がたくさん出来たような気がしました(^-^)



「石の加工実演」では、
室内なので、最終工程のみのあまり石ほこりの出ない加工をしました。

ここからは石屋ネタですが、梨地加工までの状態から、たたきのみで仕上げです。
石材は愛媛県産大島石です。



本日は、教室系、体験系、飲食系、ゲーム系etc... たいへん多くの出店がありました。
そして、これは上野商工会議所青年部(上野YEG)の創立25周年記念イベントということもあり、多くのYEGメンバーが運営していました。
出展者の皆さん、上野YEGの皆さん、おつかれ様でした。







2013/11/02 22:31:15|その他
11/4ハイトピアグランドオープン記念事業に出展します。

11/4(月・祝)のハイトピアグランドオープン わざとすべ〜夢の体験〜
に出展します。


これは私が昨年まで在籍していた上野商工会議所青年部(YEG)が
創立25周年を記念した事業として開催され、とても盛りだくさんな内容
で、お子様からご年配のかたまでご家族皆さんで楽しめます。


そこで弊社も記念出展
 勾玉つくり&篆刻つくり体験教室
 忍び日時計 (展示のみ)
 石灯篭・加工の実演...
などなど、出展します。




そこでちょっと苦労したのが「忍び日時計」
作る前に模型も作成しました。それが夏のころ。
先月(10月)に完成。そしたらなぜか針の影が裏側に・・・
太陽の角度の都合で
表(金の手裏剣)文字盤は春分の日〜秋分の日までだったんです。
あわてて、裏(影の手裏剣)文字盤を作りました。





まあ、それも含めて見に来てください。

 







2013/07/26 20:17:16|その他
四国から届きました!

毎日暑い日が続いています。

そんな中、四国より良質な御影石の原石(お墓を加工する前の石)が届きました。

朝早くに届けてくれた運転手さん、一緒に積荷おろしを手伝ってくれました。
お疲れのところ、ありがとうございました。無事に帰れたかな。

お陰様で、良いお墓が作れそうです。


先日、買い付けの途中で見つけた、きれいな模様の小豆島石テーブルトップも、一緒に届けてくれました。







2013/06/29 10:18:05|その他
桔梗が丘の鹿島宮 参集殿の碑はなぜ丸い?

5月に仕事でお世話になった名張市桔梗が丘の「鹿島宮(かしまのみや)」をご紹介します。

鹿島宮は鹿島神宮(茨城県)・香取神社(千葉県)の正式な御分霊を奉斎され昭和48年5月に創建されました。今年は創建40年周年を迎え、「参集殿」がご造営されました。

その正面に建つ「鹿島宮参集殿」の碑
これは鹿島神宮(茨城県)より送られたものです。
どうして丸いのでしょう?
これは鹿島神宮の旧石鳥居の柱の一部なのです。
柱の径は1m、その石鳥居の高さはなんと約12mにもなります。
材質は茨城県の良質な御影石「稲田石」です。


鹿島宮の隆昌と地域の発展を祈念し、鹿島神宮より寄贈されました。



 








2013/06/29 9:28:46|その他
服部半蔵のお墓を拝見
先日、東京へ行ったので服部半蔵正成殿のお墓参りへ

「槍の半蔵」の異名を持つほどの名手半蔵が徳川家康より賜った槍も拝見させていただきました。

その夜は半蔵門で忍3人で密談でした(^^)--==卍



服部半蔵のお墓と槍がある東京の西念寺
 服部半蔵正成は、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。
 「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8千石を賜り、同年の家康の江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。
 半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する際介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。
 文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、慶長元年(1596)11月14日、55歳で没した。
 西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転。


家康の「伊賀越え」
 家康は、「本能寺の変」の起こる数日前から、信長の招待を受け畿内各地を見物中で、泉州の堺で事件のことを聞きました。このとき、家康のお供は、本多忠勝・服部半蔵・武田氏の旧臣穴山梅雪等のわずか30人余りでした。早々に本国三河へ帰ろうとしました。
 そのため、家康の一行は、伊賀越えをし伊勢の海から船で三河に渡る最短の経路を選びました。堺から南山城へ出て、近江信楽付近から伊賀丸柱を経て、鈴鹿の山を越え、伊勢国へと急ぎました。
 しかし、武士と言えども少人数で間道を通行することは危険きわまりないことです。地侍や土民(農民)の一揆の恐れがあり、穴山梅雪は、一行より少し遅れたため土民に殺害されています。家康の一行も、途中、地侍や土民に襲われたこともありました。家康の生涯においても、大きなピンチの一つであったのです。そのとき、伊賀出身の服部半蔵がおり、甲賀者や半蔵が集めた伊賀者によって助けられたと言われています。このように、家康の一行は、彼らに守られ伊勢までたどりつきました。この「伊賀越え」以来、徳川家康は護衛にあたった彼らを召し抱え、甲賀・伊賀の忍者組織を手の内に入れることになったのです。