なべ重 つれづれ草

つれづれなるままに、日暮らしコンピュターにむかいて、心に移りゆくよしなし事を、  勝手気ままに、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
 
2014/01/31 1:03:53|芭蕉の句
芭蕉翁と椿
瓢竹庵を調べていると不思議な出逢いがありました。

大阪本町御堂筋に南御堂「難波別院」の敷地内芭蕉最後の

句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」句碑の横に椿の花を見つ

けました。蓑虫庵中門の入り口にも大きな椿の木、又芭蕉翁

生家の無名庵跡地にも椿の木、農人町妙華寺には岡本苔蘇の

石塔を囲むように大きな椿の大木、史蹟芭蕉翁故郷塚、愛染

院にも、東日向町角の大きな屋敷内にも椿の木がありました。

確信がありませんが偶然の一致でしょうか不思議です。







2014/01/21 1:10:56|芭蕉の句
幻の瓢竹庵 3

復興瓢竹庵は愛染院故郷塚の小門を入ってすぐ左に瓢竹庵と額

のかかった小さな建物は、昭和5年に時の上野町長・田中善助

氏の発起で2代目瓢竹庵が完成しました。屋根の軒下には瓢竹

庵と自然の木額に書かれて、室内の戸を開けると茶室や待合室

などがありました。                                








2014/01/12 1:18:03|芭蕉の句
幻の瓢竹庵 2

素晴らしい出逢い、瓢竹庵 の主、岡本苔蘇(たいそ)の墓地を見

つけました。上野農人町、妙華寺山門を入り左側に大きな椿に囲

まれた墓標の変わりに遺言どおり花立の石塔がありました。
 
お寺の坊守さんの話によると石には戒名の変わりに「験看比

椿」宝永六年と石に刻まれ、椿の種類は珍しく「侘助椿」(わ

びすけつばき)と言われるそうです、又庭内には寒椿やサザン

カの花が沢山咲いていました。

偶然かも知れませんが墓地の東隣には史跡芭蕉故郷塚、愛染

院の屋根が丸見えです。

 








2014/01/03 0:34:09|芭蕉の句
幻の瓢竹庵
芭蕉翁五庵の一つ「瓢竹庵」本には書かれていますが、場所は

何処に在るか興味をもち調べました。

本に書かれているには
瓢竹庵は蕉門、岡本苔蘇(たいそ)の邸

で、服部土芳の蓑虫庵から一つ東の筋、上野東日向町にあつた

そうです。庭内には桜の古木があって、花盛りの頃は人で賑

わい、芭蕉翁が吉野の花見に出かける前にここに逗留し句を詠

み旅に出たそうです。

岡本苔蘇は土芳親友の一人で生前椿を愛し、「わが墓には碑を

立てず椿を植えよ」と遺言した奇特な人で宝永6年50才で

亡くなっています。

本に書かれたとおり東日向町の瓢竹庵を探し、あちこちの家を

訪ねたが誰も知らなかった。

ただ、瓢竹庵と書かれた額が史跡芭蕉故郷塚、愛染院敷地内

の復興瓢竹庵に残されていた。額には「さまざま園主人書」と

書かれて横に時代と共に薄くなった印鑑も押されていた、詳し

い事は又調べます。当時さまざま園当主は藤堂新七郎良得です。

 







2013/12/22 0:52:23|よもやま郷土史
増田嘉兵衛翁 頌徳碑ご存知ですか 2
明治維新に活躍した増田嘉兵衛は15歳で大阪に出て仕事に

付くが飽き足らず、横浜で増田屋を設立して対外貿易で生糸

の実業家として成功する。明治2年横浜為替会社(第二国立銀

行)の設立に協力しました。翌年明治3年時の伊藤博文大臣

と共にアメリカに渡り、金融、貿易、産業など海外事情を視

察調査して商業都市横浜の基礎を築きました。

同年12月わが国最初の日刊新聞、横浜毎日新聞社を創刊。

私の友人に
嘉兵衛の話をすると、現在横浜アイランドタワー

の所に嘉兵衛の名前が刻まれた碑文探し出しだしメールで送

られて来ました。