関西本線の名古屋から湊町間が、全線非電化だった半世紀ほど前。鉄道100年に始まり、湊町奈良間電化を控えて、空前のSLブームが巻き起こった。平成の時代も終わり、懐かしさを通りすぎ伝説の世界に入った、あの時代にタイムスリップする懐古鉄なブログです。
 
2025/09/18 20:10:00|電車列車
続・あおぞら号伝説

1977(昭和52)年10月9日(日)

当日の上野測候所、正午の気象データは、気温17.6度。西南西の風。風速1.8m/s。(午前9時は雲量10)。

左) 桔梗が丘駅下りホーム(伊賀神戸方面)に到着した、初代あおぞら号20100系。撮影した先頭車両は、大阪線所属のモ20301,2,3の何れかのようだ。左隅には、近鉄 桔梗が丘ニュータウンの鉄塔看板が写っていた。

中) 左] ドア部の補助席が使用中の運転室後方の一般席。3号車で、車両番号は、アディダスバッグ等に隠れてプレートが写っておらず不明。

右上] 階上席の階段部のロング席に座っていて、近ツーの添乗員の方に撮ってもらった当方。マジソンバッグからカメラを出してフィルムを巻いておき、桔梗の駅に着いたら、ドアが開くと同時に構内踏切にダッシュして、級友らが写り込まない状況で、撮ろうと目論んでいたのだが。

右中] 階上席と階下席の様子。右下] 大分バスのガイドさんとのお別れが近づき、1本だけ持って行ったフラッシュ電球は、このコマで焚いた。
中下] 伝説の別府ドライブイン。左下] 瀬戸内海フェリーの「あつた」で大阪南港に着き、バスで(大阪)上本町駅に向かい、あおぞら号に乗った。

右) 修学旅行の日程を再確認する為、卒業アルバムを眺めていると、電算機部という文化系クラブがあった。小型軽量化されて「電卓」という略称が普及した当時、プログラム可能な電子卓上計算機を「電算機」と略していて、電算機室という教室があったと思う。

部の顧問が数学の先生で、その教室で電算機の授業を受けて、ワンアップ、ツーダウン、とかいう難解なプログラム方式で、レシートのような小片に印字されたリストを、親指と人差し指でつまんで確認したのを思い出した。

このマシンが、どこ製で何という機種なのか、当方が切り取り拡大して貼り付けた、左下] をグーグルレンズに入れても、ズバリの回答は得られず。プリンター式+電算機+1976、他のキーワードを色々と入れて半日は探した。プリンター部、赤色7セグLED表示部、キーボードの配置が酷似している、キャノンの高等学校数学教育用のCanolaSX-103という機種の可能性が高まった。3台中、左のプロトタイプっぽいマシンは、前期型かも?。

BASIC言語が搭載されたマイコンの出現が、PC黎明期とするならば、その前夜に登場したマシンで、納入価格は、いくらぐらいだったのだろう。画像リンクした夢の図書館+マイコン博物館+模ラ博物館(公式)の、学習コンピュータという雑誌の裏表紙広告では、パーソナルコンピュータを名乗っている。後の「プログラム電卓」相当の据え置き型とはいえ、当方のPC歴は、伝説の母校の電算機授業から、今年で足掛け50年になるのだが。

 





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