関西本線の名古屋から湊町間が、全線非電化だった半世紀ほど前。鉄道100年に始まり、湊町奈良間電化を控えて、空前のSLブームが巻き起こった。平成の時代も終わり、懐かしさを通りすぎ伝説の世界に入った、あの時代にタイムスリップする懐古鉄なブログです。
 
2024/04/04 19:02:00|電車列車
太陽の塔と大阪行快速

「EXPO 2025」日本国際博覧会の開催まで一年ほどに迫り「万博ラッピング」の車両が関西の各鉄道会社で走り始めたとのこと。

1974(昭和49)年7月27日(土)
当日の大阪管区気象台、12時の気象データは、気圧1012.0hPa。気温31.0度。湿度60%。西の風。風速5.0m/s。雲量5。

この日、万博記念公園で開催中の「中国博」を見に行った。上野動物園にパンダがやって来た「日中国交正常化」の翌々年、万博の時は、国交が無く未参加だった中国のリベンジ開催だったらしく。BCLブームも始まり、短波ラジカセで 9.965MHzの「北京放送」を聞いて、情報を仕入れたような気もする。

上) 大屋根が残ったままの「太陽の塔」芸術は爆発だ!と言った岡本太郎氏プロデュースは、あまりにも有名。お祭り広場の人影が写り込まないよう撮った筈だが、スキャンすると下隅ギリギリに写っていて、改めて太陽の塔の大きさを実感できた。

中上) 奈良駅1番のりばに停車する、春日塗り113系の快速大阪行。関西本線が奈良〜湊町まで電化された翌年、平日(当時は土曜含む)も奈良〜大阪まで環状線経由の快速が運行開始した1週間後。これに乗って大阪駅で東海道本線に乗換えて、吹田からバスで会場に行ったようだ。

中下) 「中華人民共和国展覧会」が中国博の正式名称。サブタイトルは「新中国の紹介−理解と友好」。開催期間は1974年7月13日(土)〜8月11日(日)。このゲートは大屋根の北東あたりだろうか。

下左) 茨木駅発行、伊賀上野行の切り取り式の乗車券。帰りはバスで茨木に向かった。伊賀上野駅の改札を出る際「記念に」と言って譲り受けた物。

下右) 日本万国博覧会「人類の進歩と調和」の記念メダル。ダイヤル式刻印機での1970年5月31日(日)の日付あり。この日、テーマ館の太陽の塔の中に入り、生命の樹を見ながらエスカレーターで登った。上) の写真に写った右腕から出て大屋根の中を歩いて、下にお祭り広場が見えたのを思い出した。

「世界の国からこんにちは」が1970年の大ヒット曲なのは、間違いなさそうだ。

 




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Re:貴重な歴史を
kuro&hanaさんコメントありがとうございます。
現在、ネット上で見る事が出来る「エキスポ70」関連の資料のように、フィルム、紙、金属といった、有形な物で保存していたおかげで、50年もの歳月に耐えたのだと思います。
「エキスポ25」をスマホ等で撮ったとして、半導体メモリーには必ず寿命がありますから、果たして50年も持つのか心配なところです。SDカードが何枚も3年ほどで壊れましたし。

moni5187  (2024/04/05 19:55:44) [コメント削除]

貴重な歴史を
彩ってるものばかりですね。
高校生だった記憶、長蛇の列の米ソ館を避けて比較的行列の少ないパビリオンばかり行ってたことを思い出しました。
当時のものなどよく残されていますよね、他にもいろんなタカラモノがありそうなので、ぜひ「まちかど博物館」開設してください。

1970年の万博はいい思い出です。

kuro&hana [WEB] (2024/04/04 23:39:17) [コメント削除]

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