ショート・ショート 愛のデーター不在
その部屋は、静かで、完璧にコントロールされていた。 青年エヌ氏は、目の前の大きなデスクに向かって、満足そうに腕を組んでいた。
「素晴らしい時代になったものだ。机から一歩も動かずに、すべてが手に入る」
エヌ氏が住んでいるのは、大都市から少し離れた、緑豊かな地方都市の分譲マンションだった。かつては交通の便が悪く、陸の孤島などと呼ばれた地域である。近隣の三大都市――N市、O市、K市へと向かう鉄道は、何十年も前にダイヤが間引きされ、今や一日に数本しか走っていない。
しかし、エヌ氏にとってそれは何の問題もなかった。
「買い物がしたければ、ボタンを一つ押すだけだ」
エヌ氏が手元の端末を操作すると、窓の外でかすかにプロペラの音がした。自動制御のドローンが、彼が注文したばかりの最高級のコーヒー豆をベランダへと届けてくれたのだ。
仕事も完全にリモートワークだった。立体ホログラムの会議室で、都市部にいる同僚たちと毎日顔を合わせ、何不自由なく業務をこなしている。 さらに、窓から見える景色は美しく、空気は澄んでいる。大都市の混雑や騒音とは無縁の、まさに理想郷だった。
ある日、エヌ氏のもとに、N市に住む友人から通信が入った。
『やあ、エヌ。久しぶりにこちらのバーで一杯やらないか? 最高の酒が手に入ったんだ』
エヌ氏は微笑んで首を振った。
「わざわざ行く必要なんてないさ。その酒のデータを送ってくれれば、我が家の分子合成機が寸分たがわぬ味を再現してくれる。画面越しに乾杯しよう」
友人は画面の向こうでため息をついた。
『相変わらずだな。便利かもしれないが、たまには外の空気を吸って、自分の足で移動してみるのもいいものだぞ。たまにはこっちへ来いよ』
通信が切れた後、エヌ氏は少しだけ考え込んだ。 自分の足で移動する、か。最後に電車に乗ったのはいつだっただろう。 たまには、大都市のあの喧騒を肌で感じてみるのも悪くないかもしれない。何事も経験だ。
「よし、明日は久しぶりに、自分の肉体を使って移動してみるか」
翌朝、エヌ氏は仕立ての良いスーツを着込み、何年も使っていなかった革靴を履いて外へ出た。 小鳥のさえずる道を歩き、最寄りの駅へと向かう。駅のホームには人影がなく、自動券売機だけが寂しげに光っていた。
時刻表を見ると、次の電車が来るのは三時間後だった。
「おや、ずいぶんと待たせるな。まあいい、のんびり行こう」
エヌ氏はベンチに腰掛け、読書をして時間を潰した。ようやくやってきた一両編成の古い電車に乗り込む。電車はガタゴトと音を立てながら、山を越え、谷を越え、信じられないほどの時間をかけてゆっくりと進んでいった。
ようやく目的の都市に到着したときには、すでに日が暮れかけていた。エヌ氏はすっかり疲労困憊していた。
駅の改札を出ると、そこは目も眩むような大都会だった。高層ビルが立ち並び、きらびやかなネオンが輝いている。 エヌ氏は友人に連絡を取ろうと、スマートフォンを取り出そうとした。
しかし、ポケットを探っても、端末が見当たらない。
「しまった! 電車の中に忘れてきてしまったか!」
エヌ氏は青くなった。現代社会において、情報端末を失うことは、自分の存在を失うことに等しい。電子マネーも使えなければ、友人の連絡先も、自宅のスマートロックの解除キーも、すべてあの端末の中なのだ。
彼は慌てて駅の窓口に駆け込んだ。
「すみません! 電車の中に端末を忘れたんです。すぐに連絡を取って、次の駅で止めてもらえませんか?」
駅員は、怪訝そうな顔でエヌ氏を見た。
「お客さん、何を言ってるんですか。あの路線には、もう運転士も駅員も乗っていませんよ。すべて完全自動のプログラム走行です」
「じゃあ、そのプログラムに命令を出して、次の駅でドアを開けないようにしてくれ!」
駅員は困ったように肩をすくめた。
「そんな権限、我々にはありませんよ。あの電車の運行データは、すべて中央のメインコンピューターが一括管理していますからね。直接交渉するしかありません」
「そのメインコンピューターはどこにあるんだ!?」
駅員は、はるか上空にそびえ立つ、巨大な全面ガラス張りのビルを指差した。
「あそこですよ。情報管理省の超高層ビルです。あそこの最上階に、すべての交通網を支配する頭脳があります」
エヌ氏は必死に走った。慣れない革靴で足が痛んだが、なりふり構っていられなかった。 ビルの重厚な自動ドアをくぐり抜け、受付へと飛び込む。
「頼む! 上のメインコンピューターに合わせてくれ! 預けた端末を返してほしいんだ!」
受付にいたのは、精巧に作られたアンドロイドの女性だった。彼女は美しい微笑みを浮かべたまま、滑らかな声で言った。
「申し訳ございません、お客様。当ビルへの立ち入りおよびメインコンピューターへのアクセスには、事前の電子申請と、ご本人様の端末による認証が必要となっております」
「だから、その端末をなくしたからここに来たんだ!」
エヌ氏が叫んだが、アンドロイドは困ったような、しかし完璧な笑顔を崩さない。
「規約により、端末をお持ちでない方の手続きは一切受け付けられません。申し訳ございませんが、お引き取りください」
エヌ氏は絶望のあまり、その場にへたり込んでしまった。
ふと、ビルのガラス窓に映る自分の姿が目に入った。 仕立ての良いスーツは汗で汚れ、髪は乱れ、都会の真ん中で一文無しで行き場を失った男。
周囲を見渡すと、都市の人々はみな、手元の端末を見つめながら、エヌ氏のことなど目にもくれずに通り過ぎていく。彼らは完璧にネットワークとつながり、一歩も動かずに何でも手に入る世界に生きている。
ただ一人、物理的な交通網という「過去の遺物」に足を踏み入れ、そこからこぼれ落ちてしまったエヌ氏だけを置き去りにして。
エヌ氏は、ぽつりと呟いた。
「なるほど……。交通の便が悪いというのは、行けないということじゃなくて、二度と帰れないということだったのか……」
端末を失ったエヌ氏は、自分がどこの誰であるかを証明する手段を一切失ってしまった。警察に行っても、データが照合できなければ浮浪者扱いである。彼は仕方なく、都会の片隅で途方に暮れていた。お腹がすいても、電子マネーがなければパン一つ買えない。その時、エヌ氏の目の前の空間に、ピカッと光が走った。彼の自宅にあるはずの「立体ホログラム転送装置」が起動し、そこに伊賀市の自宅にいるはずの彼の妻の姿が映し出されたのだ。
『まあ、あなた! どこへ行っていたの? 部屋に帰ってきたらあなたがいないから、端末のGPSを追跡したのよ。今、あなたの端末は自動運転の電車に乗って、無事にこっちの駅に戻ってきているわよ』 エヌ氏は飛び上がって喜んだ。
「おお、それはよかった! 頼む、そこから今すぐ、こちらへ迎えの自動ドローンか何かを手配してくれ! 私は一文無しで帰れないんだ!」しかし、画面の向こうの彼女は、困ったように眉をひそめた。 『え? 迎えを出すって、どうやって? あなたの肉体を運ぶような巨大な乗り物、この街のどこにも登録されていないわよ。第一、今のあなたには端末がないから、ドローンがあなたを「エヌ氏本人」だと認識できなくて、不審者として通報されちゃうわ』
「じゃあ、私はどうやって帰ればいいんだ!?」彼女は、画面越しに優しく微笑んだ。 『大丈夫よ、あなた。お仕事なら、その都会のホログラムボックスからでもいつも通りリモートでできるでしょう? 端末はこっちで私が預かっておくから、ご飯のデータだけ毎日そっちに送信してあげるわね。じゃあ、お仕事頑張って!』ブツッと通信が切れた。
エヌ氏は、最先端のビルが立ち並ぶ都会のど真ん中で、ホログラムの残像を見つめながら立ち尽くした。 彼のデータと端末は、緑豊かな素晴らしい自宅で快適に暮らしている。ただ、彼の面倒な「肉体」だけが、都会のゴミ捨て場のような場所に、永遠に置き去りにされてしまったのだ。