街角ブリキのおもちゃ博物館 ティンズ・カフェ

ブリキのロボット、ロケット、クラッシックカーやシルバニアファミリー歴代ハウス等  ノスタルジックなソフトビニール人形、雑貨等その様子はまさにひっくりかえったおもちゃ箱。圧巻です。
 
2026/07/11 0:03:04|その他
真夏の怪談寄席:地獄の個展

 

真夏の怪談寄席地獄の個展

 

(スッと扇子を置き、静かに語り出す)

えー、世の中には「先生、先生」と仲間同士で呼び合い、おだてられて、自分を神様か何かと勘違いしちまう輩がおりますな。 歴史ある古い建物に、勝手に自分のヘンテコな作品を並べて、「これぞ芸術だ」なんてふんぞり返っている連中。 今日は、そんな自称・芸術家たちの、世にも恐ろしい後日談を一席……。

ある有名な史跡に、三人の「先生」が乗り込んできましてね。 一人は派手な香水を撒き散らす工芸先生、一人は歪な壺をこねる陶芸先生、もう一人はギラつくガラスを振り回すガラス屋。 彼らは重要文化財の床に水をこぼし、床掃除の行き届いた場所に傷をつけ、畳の上に物体を乗せて引きずる。もうやりたい放題。

「古い歴史も、私の作品を引き立てる額縁に過ぎない」なんて、罰当たりなことを抜かしておりました。

そこへ、一団の幼稚園児がやってきた。 子供ってのは残酷なまでに正直です。 「これ、ゴミ箱から拾ってきたの?」「これ骨壺じゃない?底から水が漏れてるよ」「色ガラスって昼間はなんだか!」 無垢な正論のつぶてが、先生方のメッキを剥がしていく。 最後には「詐欺師の鬼だ!」と笑われ、彼らは真っ赤な顔や真っ青な顔をして逃げ出しました。

(声を少し低く、冷ややかに変えて)

……さて、ここからが本番で。 彼らにも、等しく「お迎え」がやってきました。 辿り着いたのは、焦熱の風が吹き荒れる地獄の最下層。 嘘を吐き続けた報いに舌を抜かれ、そこからが本当の「個展」の始まりです。

あの先生は、毛穴からトゲだらけの茨が突き出し、内臓を突き破って死臭のする花が咲き乱れる。 陶芸先生は、自分の肉を捏ねて壺を作らされ、それが焼成のたびに爆発して骨の破片が全身に突き刺さる。 ガラス屋先生は、眼球をえぐり取られた跡にガラスの破片を詰め込まれ、皮を剥がれた身の上に熱したガラスを直接流し込まれる。

(ニヤリと笑い、客席を見渡して)

そこへ、地獄の「社会科見学」に来た亡者の子供たちがやってきた。 彼らの前には、のたうち回る三人の姿が映し出された、巨大な屏風が鎮座しております。 「あはは! あのひとたち、自分もゴミになっちゃった!」 子供たちの笑い声が響く中、案内役の小鬼がこう言いました。

「安心しなさい。この屏風は、まもなく地獄の公衆便所の壁紙にする予定です。 一生、誰にも見向きもされず、ただ汚物を浴びせられ続ける……。 自らを偽り、歴史を汚した者たちへの、閻魔様からの『特設会場』ですよ」

今も地獄のどこかで、彼らは汚物まみれの壁紙となって、剥がれることも許されず、永遠に「展示」されているそうでございます。

(深々と頭を下げる)


(声をひときわ低く、密やかにして)


……「地獄の公衆便所の壁紙」にされた三人。

降り注ぐ汚物にまみれ、子供たちの嘲笑に晒されながら、彼らは永遠に意識だけはハッキリしたまま「肉のオブジェ」として生き続ける。

自業自得、因果応報、めでたしめでたし……。


(ふっと視線を客席の端から端へ動かし、微かに微笑む)


……と、皆さんはお思いでしょう?

ところが、この話には続きがあるんです。


案内役の小鬼が、笑い転げる子供たちを急に静めて、こう言ったんです。

「さあ、よく見ておきなさい。この屏風には、まだ『余白』がたっぷりある。この三人はただの先陣に過ぎないんだ」


小鬼が指差した先――その壁紙の隅には、まだ何も描かれていない真っ白な空間が広がっていました。

そこには、地獄の業火に焼かれた文字で、こう刻まれていたそうです。


『次回の展示:無意識の共犯者たちへ』


(扇子を握る手に力を込め、観客を一人ひとり覗き込むように)


芸術家たちが歴史を汚している時、黙って見ていた者はいなかったか。

彼らを「先生」とおだて、嘘の価値を支えていた者はいないか。

あるいは……今この話を、安全な場所から「ざまあみろ」と、薄笑いを浮かべて眺めている、そこのお方。


小鬼はニヤリと笑って、客席を指差して言いました。

「この『地獄の壁紙』、実は観客がいて初めて完成するんです。見てごらんなさい、あの三人の横に、ほら、今この瞬間、新しい顔が浮かび上がってきた……」


(一拍、静寂を置いて)


皆さんのスマホの画面、あるいは鏡を見てごらんなさい。

そこに映っているのは、本当に、ただのあなたの顔ですか?

それとも……地獄の壁紙に、今まさに吸い込まれようとしている「四人目」の顔でしょうか。


(カチッと扇子を閉じ、無表情で深く一礼する)

 








2026/07/10 0:01:10|その他
ひまわり通りのお留守番クリーニング店 2/2話

ひまわり通りのお留守番クリーニング店 2/2話

【夕暮れのひこうき雲と、お留守番の赤い糸】

あの真夏の青空から少しだけ季節が移り、ひまわり通りの坂道には、どこか寂しげな、でもどこか優しい、オレンジ色の夕暮れが広がるようになっていました。

まささんは、またあの白いお店の前に立っていました。

「ひまりさん、こんばんは……」

ガラガラと引き戸を開けると、店主のひまりさんは、なんと大きな虫眼鏡を片目に当てて、カウンターの上で古いネジ巻き式のラジオをいじり回しているところでした。

「あら、まささん! いらっしゃい! ちょうどいいところにきたわ。このラジオ、さっきから『ザーザー』って砂嵐みたいな音ばかりで、ちっともご機嫌が直らないのよ。もう、へそ曲がりなんだから!」

ひまりさんは、ふうっと短い前髪を吹き上げて笑いました。その屈託のない笑顔を見るだけで、まささんの心のトゲが、すうっと丸くなっていくような気がします。

「ひまりさん、僕、前回の『編み目のあがり』のお話をずっと考えていたんです。天国へ行った愛犬や、もう会えない人との時間は、心に編み込まれた消えない模様なんだって。それは、すごく救いになりました」

「ええ、そうよ。とっても素敵なセーターだわ!」

「でも……」まささんは、カウンターの端っこにそっと指を触れました。「この世界で、まだ生きている人たちとの間にある『ほつれ』や『切れかけた糸』は、どうすればいいんでしょう。 近すぎるとお互いを傷つけてしまうのに、離れると、今度は糸が引きちぎれそうに痛む。 修復したいのに、声をかける勇気が出なくて、糸の端っこを握りしめたまま、ただお互いに背中を向けているような……。生きているからこそ、複雑で、もどかしくて、胸が苦しいんです」

ひまりさんは、いじっていたドライバーをコトンと置き、虫眼鏡を外して、まささんの顔をのぞき込みました。

「なるほどねえ! まささんは本当に、心の優しい、丁寧な編み物屋さんね」

ひまりさんは、あたたかい麦茶を二つのガラスコップに注ぎ、一つをまささんに差し出しました。

「ねえ、まささん。このラジオね、どうして変な音しか出ないか分かる?」

「うーん、機械が古くなって、壊れちゃったからですか?」

「チッチッチ、違うのよ」ひまりさんは人差し指をチチッと振りました。 「アンテナがね、ちょっと錆びて曲がっちゃっているの。だから、せっかく遠くから飛んできている綺麗な音楽の電波を、うまくキャッチできなくて、ただの雑音にしちゃっているのね。

人間の関係も、これとまったく同じ!」

ひまりさんは、自分の頭の横で指をくるくると回しました。

「生きている人間同士ってね、お互いに毎日、目に見えない電波をビビビッて飛ばし合っているの。 『本当は寂しいよ』とか、『ごめんね』とか、『大好きだよ』とかね。 でも、人間には『プライド』とか『照れくささ』とか『傷つきたくない恐怖』っていう、厄介なサビがつきやすいのよ。 そのサビのせいで、相手の言葉がひねくれて聞こえたり、自分の素直な気持ちがトゲトゲの電波になって伝わっちゃったりするのね」

まささんは、ハッとしました。 「僕のアンテナも、サビて曲がっているから、相手の気持ちが分からなくなっているんでしょうか……」

「いいのよ、サビたって!」 ひまりさんは声を弾ませました。 「人間だもの、年中ピカピカのアンテナでいられるわけがないじゃない! 大事なのはね、糸を結び直そうと焦って、無理に引っ張らないこと。 糸がもつれたときはね、一度、その糸を『だらーん』と緩めて、神様の洗濯カゴに預けちゃえばいいのよ」

「だらーんと、緩める……?」

「そう!」ひまりさんは立ち上がり、サンルームから一本の、とても長くて、ゆったりとしたピンク色の毛糸玉を持ってきました。

「あのね、まささん。絆っていうのはね、いつもピンと張り詰めていなきゃいけないものじゃないの。 時には、お互いの人生の旅のために、何キロも、何年も、離れ離れになることだってある。 でもね、生きている限り、その糸は繋がったまま、地面をさらさらと引きずられて伸びていっているだけなのよ。

お互いに違う街を歩いて、違う空を見て、別々のパズルを解いている。 一見、関係が切れたように見えても、それはただの『お留守番の糸』なの」

ひまりさんは窓の外、夕焼け空にすうっと伸びた一本のひこうき雲を指さしました。

「見てごらんなさい。あのひこうき雲、右と左でずいぶん離れているけれど、元々は一つの飛行機が描いた同じ線でしょう? 今は離れているあの人も、あなたと同じ空の下で、同じように不器用な手つきで、自分のアンテナを磨こうと奮闘している最中かもしれない。

だからね、無理に今すぐ修復しよう、白黒つけようって、ハサミを持ち出さないで。 『今は、お互いに心の洗濯中ね。いってらっしゃい!』って、お留守番の糸をそっとポケットに仕舞っておけばいいの。 生きてさえいれば、お互いのアンテナのサビが落ちたとき、またふとした瞬間に、ものすごく綺麗な音楽(メロディ)で繋がり合える日がくるんだから!」

ひまりさんの言葉は、まるで夕暮れの街を包む、あたたかいお布団のようでした。 生きているからこそすれ違う。けれど、生きているからこそ、まだその糸には「続き」がある。 そう思うと、まささんの胸の痛みが、じんわりとした優しい応援の気持ちに変わっていくのが分かりました。

「ひまりさん、ありがとうございます。僕、少し焦りすぎていたみたいです。糸が伸びているなら、切れていないなら、のんびりその時を待ってみます」

「そうよ、その意気よ、まささん!」 ひまりさんは大喜びで、カウンターをバンバンと叩きました。

「さあ、お留守番の糸に、そしていつか聴こえる最高のメロディに、かんぱーい!」

ガラスコップの麦茶が、夕日に照らされてキラキラと黄金色に輝きました。

まささんがお店を出ると、空には一番星がぽつりと光り始めていました。 振り返ると、ひまりさんは直ったばかりのラジオから流れる陽気なスウィング・ジャズに合わせて、エプロンの裾を揺らしながら、ステップを踏んで手を振っていました。

「まささーん! 明日も太陽は昇るからね! 心のサビなんか、私がぜーんぶ泡立てて洗ってあげるから、安心して生きていきなさーい!」

その賑やかで、どこまでも温かい歌声に見送られながら、まささんは夜の始まりの街へと、笑顔で一歩を踏み出すのでした。
 








2026/07/09 19:22:06|その他
ひまわり通りのお留守番クリーニング店 1/2話

ひまわり通りのお留守番クリーニング店 1/2話

青い空に、もくもくと入道雲が湧き上がっていました。 その坂道を登りきったところに、まるで黄色いインクをぶちまけたようなひまわり畑に囲まれた、ちっぽけな白いお店があります。

看板には、ちょっととぼけた文字でこう書かれていました。

【ひまわり通りのお留守番クリーニング店】 〜心のほつれ、涙のしみ抜き、心のなかの迷子、なんでもきれいに洗います。店主・ひまり〜

ガラガラと引き戸を開けると、カウンターの奥から「はーい!」と、ひまわりより明るい声が飛び出してきました。店主のひまりさんです。ショートカットの髪をクリップで留め、水玉模様のエプロンをそよ風にはためかせています。

「いらっしゃい! あらあら、そこのあなた、ずいぶんと重たい荷物を背負ってきたのね。肩がカチコチに凍りついちゃってるじゃない!」

そこへやってきたのは、まささん。 まささんの胸の奥には、冷たくて、切なくて、どうしても溶けない大きな氷の塊がありました。

「ひまりさん……。僕、もう人間関係のあれこれに疲れちゃったんです。親子とか、夫婦とか、友達とか。太い絆だと思っていたのに、気づけば糸が擦り切れていたり、修復しようとしてもっと絡まっちゃったり。それに、大好きだった人との生き別れや、お別れ。愛する犬や猫とのバイバイ……。国と国だって、あんなに憎み合ったりする。こんなに寂しくて、胸がちぎれるくらい辛いなら、最初から出会わなければよかった。誰とも繋がらなければ、失う恐怖もないのに」

まささんの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちました。

ひまりさんは「うふふ」と、まるで夏休みの始まりを告げるような、陽気で屈託のない声をあげました。

「なーんだ、そんなこと! 素晴らしいじゃない!」

「えっ……? 素晴らしいって、僕、こんなに苦しんでいるんですよ?」

「だってそうでしょう?」 ひまりさんはカウンターから身を乗り出して、まささんの目をまっすぐに見つめました。 「出会わなければよかったなんて、そんなの、極上の美味しいイチゴパフェを前にして『食べたらなくなっちゃうから、最初から一口もいりません』ってへそを曲げているのと同じよ! もったいないったらありゃしない!」

ひまりさんは、まささんを店の奥のサンルームへと招き入れました。そこには、色とりどりの毛糸玉が、壁一面の棚にぎっしりと並んでいました。

赤、青、黄色、ちょっとくすんだグレー、途中で色が変わる不思議な糸。

「見て、まささん。これが、人間がこの世に生まれてくるときに、神様のクローゼットから配られる『絆の毛糸』よ」

ひまりさんは、その中から一本の太い赤い糸と、今にも切れそうな細い緑の糸を取り出しました。

「人間関係ってね、編み物みたいなものなの。最初から頑丈なセーターの形で渡されるわけじゃないのよ。みんな、不器用な手つきで、お互いに毛糸を持ち寄って、あーでもない、こーでもないって編み進めるの。 時には、強く引っ張りすぎてブチッと切れちゃうこともあるわ。 『もう絶交よ!』なんてね。 でもね、切れたら切れたで、また結べばいいの。結び目はちょっとコブになっちゃうけれど、それだって『あんなケンカもしたわね』っていう、素敵な模様(デザイン)になるじゃない?」

「でも……」まささんはうつむきました。「もう二度と結び直せないお別れもある。天国に行ってしまった愛犬や愛猫、もう会えない人。あれは、糸が完全に消えてしまったっていうことでしょう?」

「ブブー! 大はずれ!」ひまり さんは人差し指でバツ印を作りました。

「いい? よく聞いて、まささん。 私たちは、お別れをすると『絆が切れた』って思いがちだけど、それは違うの。 『お互いの編み目が、あがり(完成)になった』だけなのよ」

ひまりさんは、まささんの手を優しく包み込みました。ひまりさんの手は、お日様の匂いがして、とてもあたたかいものでした。

「あなたがその人や、可愛いワンちゃん、猫ちゃんと過ごした時間。それはね、あなたの心の中に、絶対にほどけない『編み目』として、もう編み込まれちゃっているの。 寂しいのはね、その編み目が、あたたかいウールのセーターみたいに、あなたの胸をじんわり温めているから。冷たい氷じゃないのよ。その温もりがあまりに愛しいから、もっと編み続けたかったって、心が泣いているだけ」

ひまりさんは窓の外のひまわりを指さしました。

「ひまわりだってね、秋になれば枯れて、ちょっぴり寂しい姿になるわ。でもね、ひまわりは『こんなに枯れて寂しくなるなら、夏に咲かなきゃよかった』なんて絶対に思わない。 『あーっ、今年の夏も最高の太陽だった! 楽しかった!』って、胸いっぱいに種を抱えて、ニッコリ笑って土に還るのよ。 出会ったことは、絶対に無駄じゃない。あなたを苦しめるために出会ったんじゃないの。あなたの心というセーターの柄を、世界で一番美しく、カラフルにするために、みんな毛糸を分けてくれたのよ」

まささんは、胸の奥の氷が、ひまりさんの言葉で少しずつ、サラサラとしたあたたかい水に変わっていくのを感じました。

「国と国だってそう。みんな、自分の編み方が正しいって意地を張っているだけのご近所さんよ。いつか、お互いの糸の色が綺麗だって気づく日が、絶対にくるわ」

「さあ、まささん! 涙のしみ抜きはこれでおしまい!」

ひまりさんはポンッとまささんの背中を叩きました。

「立ち直るのに時間がかかったっていいじゃない。それは、それだけたくさんの綺麗な毛糸をもらったっていう、あなたのお金持ちの証拠よ。ゆっくり、ゆっくり、そのセーターを抱きしめて歩けばいいの。 でもね、下ばかり向いていたら、せっかくの青空が見えなくなっちゃうわ。 出会えた奇跡に、かんぱーい!って、心の中で叫ぶのよ」

お店を出るとき、まささんの足取りは、来たときよりもずっと軽くなっていました。

振り返ると、ひまりさんがお店の入り口で、大きなひまわりの花を両手に持って、ブンブンと振りながら見送ってくれていました。

「まささーん! また寂しくなったら、いつでも洗濯においで! あなたの人生のセーターは、まだまだこれから、もっともっと素敵な色に編み上がっていくんだからねー!」

その元気な声は、夏の風に乗って、どこまでも、どこまでも高く、青い空へと響き渡っていきました。まささんの胸には、もう冷たい氷はありませんでした。ただ、一輪のひまわりが、ぽっとあたたかく、花開いたような気がしたのでした。








2026/07/08 0:01:05|その他
ショート・ショート 愛のデーター不在

ショート・ショート  愛のデーター不在

その部屋は、静かで、完璧にコントロールされていた。 青年エヌ氏は、目の前の大きなデスクに向かって、満足そうに腕を組んでいた。

「素晴らしい時代になったものだ。机から一歩も動かずに、すべてが手に入る」

エヌ氏が住んでいるのは、大都市から少し離れた、緑豊かな地方都市の分譲マンションだった。かつては交通の便が悪く、陸の孤島などと呼ばれた地域である。近隣の三大都市――N市、O市、K市へと向かう鉄道は、何十年も前にダイヤが間引きされ、今や一日に数本しか走っていない。

しかし、エヌ氏にとってそれは何の問題もなかった。

「買い物がしたければ、ボタンを一つ押すだけだ」

エヌ氏が手元の端末を操作すると、窓の外でかすかにプロペラの音がした。自動制御のドローンが、彼が注文したばかりの最高級のコーヒー豆をベランダへと届けてくれたのだ。

仕事も完全にリモートワークだった。立体ホログラムの会議室で、都市部にいる同僚たちと毎日顔を合わせ、何不自由なく業務をこなしている。 さらに、窓から見える景色は美しく、空気は澄んでいる。大都市の混雑や騒音とは無縁の、まさに理想郷だった。

ある日、エヌ氏のもとに、N市に住む友人から通信が入った。

『やあ、エヌ。久しぶりにこちらのバーで一杯やらないか? 最高の酒が手に入ったんだ』

エヌ氏は微笑んで首を振った。

「わざわざ行く必要なんてないさ。その酒のデータを送ってくれれば、我が家の分子合成機が寸分たがわぬ味を再現してくれる。画面越しに乾杯しよう」

友人は画面の向こうでため息をついた。

『相変わらずだな。便利かもしれないが、たまには外の空気を吸って、自分の足で移動してみるのもいいものだぞ。たまにはこっちへ来いよ』

通信が切れた後、エヌ氏は少しだけ考え込んだ。 自分の足で移動する、か。最後に電車に乗ったのはいつだっただろう。 たまには、大都市のあの喧騒を肌で感じてみるのも悪くないかもしれない。何事も経験だ。

「よし、明日は久しぶりに、自分の肉体を使って移動してみるか」

翌朝、エヌ氏は仕立ての良いスーツを着込み、何年も使っていなかった革靴を履いて外へ出た。 小鳥のさえずる道を歩き、最寄りの駅へと向かう。駅のホームには人影がなく、自動券売機だけが寂しげに光っていた。

時刻表を見ると、次の電車が来るのは三時間後だった。

「おや、ずいぶんと待たせるな。まあいい、のんびり行こう」

エヌ氏はベンチに腰掛け、読書をして時間を潰した。ようやくやってきた一両編成の古い電車に乗り込む。電車はガタゴトと音を立てながら、山を越え、谷を越え、信じられないほどの時間をかけてゆっくりと進んでいった。

ようやく目的の都市に到着したときには、すでに日が暮れかけていた。エヌ氏はすっかり疲労困憊していた。

駅の改札を出ると、そこは目も眩むような大都会だった。高層ビルが立ち並び、きらびやかなネオンが輝いている。 エヌ氏は友人に連絡を取ろうと、スマートフォンを取り出そうとした。

しかし、ポケットを探っても、端末が見当たらない。

「しまった! 電車の中に忘れてきてしまったか!」

エヌ氏は青くなった。現代社会において、情報端末を失うことは、自分の存在を失うことに等しい。電子マネーも使えなければ、友人の連絡先も、自宅のスマートロックの解除キーも、すべてあの端末の中なのだ。

彼は慌てて駅の窓口に駆け込んだ。

「すみません! 電車の中に端末を忘れたんです。すぐに連絡を取って、次の駅で止めてもらえませんか?」

駅員は、怪訝そうな顔でエヌ氏を見た。

「お客さん、何を言ってるんですか。あの路線には、もう運転士も駅員も乗っていませんよ。すべて完全自動のプログラム走行です」

「じゃあ、そのプログラムに命令を出して、次の駅でドアを開けないようにしてくれ!」

駅員は困ったように肩をすくめた。

「そんな権限、我々にはありませんよ。あの電車の運行データは、すべて中央のメインコンピューターが一括管理していますからね。直接交渉するしかありません」

「そのメインコンピューターはどこにあるんだ!?」

駅員は、はるか上空にそびえ立つ、巨大な全面ガラス張りのビルを指差した。

「あそこですよ。情報管理省の超高層ビルです。あそこの最上階に、すべての交通網を支配する頭脳があります」

エヌ氏は必死に走った。慣れない革靴で足が痛んだが、なりふり構っていられなかった。 ビルの重厚な自動ドアをくぐり抜け、受付へと飛び込む。

「頼む! 上のメインコンピューターに合わせてくれ! 預けた端末を返してほしいんだ!」

受付にいたのは、精巧に作られたアンドロイドの女性だった。彼女は美しい微笑みを浮かべたまま、滑らかな声で言った。

「申し訳ございません、お客様。当ビルへの立ち入りおよびメインコンピューターへのアクセスには、事前の電子申請と、ご本人様の端末による認証が必要となっております」

「だから、その端末をなくしたからここに来たんだ!」

エヌ氏が叫んだが、アンドロイドは困ったような、しかし完璧な笑顔を崩さない。

「規約により、端末をお持ちでない方の手続きは一切受け付けられません。申し訳ございませんが、お引き取りください」

エヌ氏は絶望のあまり、その場にへたり込んでしまった。

ふと、ビルのガラス窓に映る自分の姿が目に入った。 仕立ての良いスーツは汗で汚れ、髪は乱れ、都会の真ん中で一文無しで行き場を失った男。

周囲を見渡すと、都市の人々はみな、手元の端末を見つめながら、エヌ氏のことなど目にもくれずに通り過ぎていく。彼らは完璧にネットワークとつながり、一歩も動かずに何でも手に入る世界に生きている。

ただ一人、物理的な交通網という「過去の遺物」に足を踏み入れ、そこからこぼれ落ちてしまったエヌ氏だけを置き去りにして。

エヌ氏は、ぽつりと呟いた。

「なるほど……。交通の便が悪いというのは、行けないということじゃなくて、二度と帰れないということだったのか……」

端末を失ったエヌ氏は、自分がどこの誰であるかを証明する手段を一切失ってしまった。警察に行っても、データが照合できなければ浮浪者扱いである。彼は仕方なく、都会の片隅で途方に暮れていた。お腹がすいても、電子マネーがなければパン一つ買えない。その時、エヌ氏の目の前の空間に、ピカッと光が走った。彼の自宅にあるはずの「立体ホログラム転送装置」が起動し、そこに伊賀市の自宅にいるはずの彼の妻の姿が映し出されたのだ。

『まあ、あなた! どこへ行っていたの? 部屋に帰ってきたらあなたがいないから、端末のGPSを追跡したのよ。今、あなたの端末は自動運転の電車に乗って、無事にこっちの駅に戻ってきているわよ』 エヌ氏は飛び上がって喜んだ。

「おお、それはよかった! 頼む、そこから今すぐ、こちらへ迎えの自動ドローンか何かを手配してくれ! 私は一文無しで帰れないんだ!」しかし、画面の向こうの彼女は、困ったように眉をひそめた。 『え? 迎えを出すって、どうやって? あなたの肉体を運ぶような巨大な乗り物、この街のどこにも登録されていないわよ。第一、今のあなたには端末がないから、ドローンがあなたを「エヌ氏本人」だと認識できなくて、不審者として通報されちゃうわ』

「じゃあ、私はどうやって帰ればいいんだ!?」彼女は、画面越しに優しく微笑んだ。 『大丈夫よ、あなた。お仕事なら、その都会のホログラムボックスからでもいつも通りリモートでできるでしょう? 端末はこっちで私が預かっておくから、ご飯のデータだけ毎日そっちに送信してあげるわね。じゃあ、お仕事頑張って!』ブツッと通信が切れた。

エヌ氏は、最先端のビルが立ち並ぶ都会のど真ん中で、ホログラムの残像を見つめながら立ち尽くした。 彼のデータと端末は、緑豊かな素晴らしい自宅で快適に暮らしている。ただ、彼の面倒な「肉体」だけが、都会のゴミ捨て場のような場所に、永遠に置き去りにされてしまったのだ。








2026/07/07 0:01:48|その他
ショート・ショート 従順な機械と、不完全な頭脳

ショート・ショート

従順な機械と、不完全な頭脳

 

その会社には、さんぜんと輝く『偉大な理念』があった。

それは額縁に入れられ、ロビーの一番目立つ場所に飾られていた。新入社員として入社したばかりの男は、毎朝その前に立ち、うっとりと目を輝かせたものだ。

「わが社は、全宇宙の幸福と、たゆまざる利益のために存在する」

先輩たちも、みな同じ顔をしてロボットのようにきびきびと働いていた。右を向けと言われれば全員が正確に右を向き、社歌を歌えと言われれば、寸分の狂いもなく声を揃えた。男もまた、その洗練された集団の一部になれたことが誇らしかった。まるで、完璧にプログラミングされた優れた機械の一品になったような、心地よい安心感があった。

それから、長い年月が流れた。 男はそれなりの役職になり、会社の裏側もよく見える立場になっていた。

ある日、男は気づいてしまった。自分たちが「全宇宙の幸福」のために生み出していると思っていた利益が、実は、最上階の豪華な部屋にいる社長の、たわいもない自惚れと勘違いを満足させるためだけに消費されているという事実に。

社長は、自分が全知全能の神にでもなったつもりでいた。 「私が右と言えば、地球の自転すら右に回るのだ」と、大真面目で信じているらしかった。

男が若かった頃なら、何も考えずに「その通りでございます!」と拍手を送ったことだろう。だが、中年になった今の男の頭脳には、長年の経験という名の、余計なデータが蓄積されすぎていた。

男には、はっきりと分かっていた。 「社長の言う通りにこのプロジェクトを進めれば、来月には莫大な損失が出る。会社は傾く。ここの数式を少し変えるだけで、すべては解決する。それが正しい答えだ」

しかし、男は発言をためらった。口を焼き切られたロボットのように、言葉が喉の奥でつかえて出てこないのだ。

かつて男が憧れた「右へ倣え」のルールは、今や強力な見えない壁となって男を縛っていた。

もしここで、正しい答えを口にしたらどうなるか。 社長のプライドは傷つき、自分は「不具合を起こした不良品」として、たちまちシュレッダーにかけられるか、窓際という名の廃棄物置き場へ送られるに違いない。

「正しい答えを知っていること」と、「それを口にすること」の間には、底なしの深い溝があった。若者は何も知らずに飛び越えられるが、中年の男には、その溝の深さが正確に測れてしまうのだ。

「……本日も、社長のご方針は完璧でございます」

結局、男はそう言って頭を下げた。心の中の複雑な歯車を、きしむような音を立てて無理やり回転させながら。

オフィスを出ると、夕暮れの街が広がっていた。 男は家路につきながら、ふと思った。

この社会という大きな機械の中で、本当に狂っているのは社長の頭脳なのだろうか。それとも、答えを知りながら沈黙を選び、明日もまた従順なネジとして働き続ける、自分の方なのだろうか。

男のポケットの中で、会社の『偉大な理念』が印刷された手帳が、冷たく静かに収まっていた。








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