『欲望という名の、甘くてイジワルなケーキ』3/3話
第3話:キッチンで輝く勲章と、まわり道の「ありがとう」
企業戦士たちが「男のロマンだ」「ハワイだ」と大きな欲望の風船を膨らませていた頃、その横で奥様方はいたって冷静でした。
夫が定年を迎えるとなると、世の奥様方の脳内に突如として現れるのが「これからの長い時間、この人とどう過ごすか」という、なかなか切実なリアリティです。
私の知人の佐藤さんの奥様も、ご主人が「赤いスポーツカー!」と騒いでいる横で、着々と電卓を叩いていました。 「スポーツカーねえ。そんなのに乗るくらいなら、10年騙し騙し使ってきた、あの異音がする洗濯機とガタがきた電子レンジを買い替えたいわ」
妻たちの欲望は、夫たちの膨ら大な見栄に比べれば、どこまでも具体的で地についたものでした。 新しいシステムキッチン、性能の良い掃除機、そして「夫が家にずっといるストレスを解消するための、たまの友人とのおしゃれランチ代」。実に現実的で、ちゃっかりしていて、そして逞しい!
けれど、夫たちが夢を打ち砕かれてショゲ返ったとき、最後にその傷口をそっと塞いでくれたのも、やっぱり奥様方でした。
スポーツカーを諦めて軽自動車を買った佐藤さん。納車の日、どこか申し訳なさそうに「……ごめんな、こんな車になっちゃって」と小さくなっていたそうです。 すると奥様は、ピカピカの軽自動車の助手席に乗り込み、ダッシュボードをポンポンと叩いてこう言いました。 「何を言ってるのよ。小回りが利いて最高じゃない。これなら私のお買い物も楽だし、狭い道の道の駅にも行けるわ。……それにね、あなたが38年間、雨の日も風の日も満員電車に乗って帰ってきてくれたから、この車があるのよ。立派なもんじゃない」
そう言って、スーパーの袋から出してきたのは、ご主人が大好きな、ちょっと高いウナギのお弁当でした。
また、ハワイを諦めて熱海の一泊旅行にした鈴木さんの奥様もそうです。 旅館の夕食時、金目鯛の煮付けを美味しそうにほおばるご主人の姿を見て、ふっと目を細めて言ったそうです。 「ハワイなんて行かなくてよかったわよ。英語も通じないし、こんな美味しい金目鯛もないもの。あなたが真面目に働いてくれたおかげで、こうやってのんびり温泉に入れるんだから、私にとってはここが世界で一番のハワイだわ」
夫たちは、その言葉にどれほど救われたことでしょう。
男という生き物は、つくづく愚かで照れ屋です。 本当はね、胸が締め付けられるほど感謝しているんです。自分の好き勝手な夢に付き合ってくれ、愚痴を聞き、ボロボロになって帰ってきた日も変わらぬ温かいごはんを出してくれた妻に。
でも、「今まで俺を支えてくれてありがとう」なんて恥ずかしくて口が裂けても言えません。
だから佐藤さんは、買い替えた新しい軽自動車の運転席で、前を向いたままボソッと言いました。 「……おい、来週の休み、どこか美味しいものでも食べに行くか。どこでも連れてってやるぞ。車、乗り心地いいからな」
鈴木さんは、熱海の土産物屋で「こんなの要らないわよ」と笑う奥様に、派手な手刺繍のストールを半ば強引に買い与えました。 「いいから持っとけよ。寒くなったら困るだろ」
「君のおかげで、俺はここまで歩いてこられたんだ」 そんな言葉は、照れくさいから全部オブラートに包んで、小さなドライブの誘いや、ちょっとズレたプレゼントに変えてしまう。
でも、奥様方にはちゃんと伝わっているんですよね。 「やれやれ、相変わらず不器用ねえ」と呆れながらも、そのストールを嬉しそうに首に巻く奥様の笑顔。
大きな財団も、胸に輝く金メダルも要りません。 長年使い古されたキッチンの真ん中で、不器用な夫とちゃっかり者の妻が「やれやれ」と笑い合っている。そのささやかな日常こそが、戦いを終えた二人に贈られた、一番誇らしい勲章なのですから。
そして、ふと思うのです。 この定年というゴールテープの傍らには、一緒に歩むパートナーがもう隣にいない方々もたくさんいらっしゃいます。
長年連れ添った最愛の人を道半ばで亡くされ、ぽっかりと空いた穴を抱えたまま今日まで働き抜いてきた人。 さまざまな事情から別々の道を歩むことになり、一人で歯を食いしばって人生の舵を切り続けてきた人。
「自分には、そんな風に笑い合える相手がいない」と、少し寂しく胸を痛めているかもしれません。
けれど、どうか忘れないでください。 あなたが今日まで投げ出さずに、泣きたい夜を乗り越えて、一人で懸命に汗を流してきたこと。その背中を、誰よりも近くで見つめ、誇りに思ってくれていた人が必ずいます。
先立たれた奥様やご主人は、きっと天国の特等席で、「よく頑張ったね、本当にお疲れさま」と、誰よりも大きな拍手を送ってくれています。 離れて暮らすことになった大切な人も、どこか遠い空の下で、あなたが今日という日を無事に迎えたことを、そっと喜んでいるはずです。
そして何より、自分自身をごまかさず、投げ出さず、今日まで泥くさく戦い抜いてきたあなた自身の心が、一番の理解者なのですから。
誰かと寄り添う人生も立派なら、一人で痛みを引き受けて立ち続けた人生も、同じくらい……いいえ、それ以上に気高く、立派なものです。
人生のゴールテープを切ったすべての人へ。 そして、今もなお傷を抱えながら歩み続けているすべての人へ。
あなたの胸に輝くその見えない勲章に、心からの拍手と、あたたかな乾杯を捧げます。