冷めた紅茶 1/4話
「なんだか、今日はちっともケーキが美味しくないの」
小さな喫茶店のテーブルで、私はフォークの先でショートケーキの苺を突っついていた。
向かいに座っている男の人は、さっきから窓の外を眺めたまま、一度も私と目を合わせようとしない。横顔はまるでのっぺらぼうの木偶(でく)の坊みたいで、なんだか冷たくて、私のことなんてどうでもいいと思っているみたいだった。
『きっと、私の話がつまらないんだわ』
そう思った途端、胸の奥でチクチクと小さなトゲが刺さり始めた。一度そう思い込むと、彼のちょっとした仕草のすべてが嫌味に見えてくる。煙草を揉み消す手つきも、紅茶を飲む一口も、全部「早く帰りたい」と言っているように思えてしまうのだから不思議だ。
私は急に悲しくなって、もっと硬いかたなづちみたいな顔をして黙りこくった。すると彼も、ますます頑固な地蔵様みたいに口を閉ざしてしまった。
「あーあ、なんて嫌な雰囲気!」
でもね、本当は違っていたの。
その時、彼の頭の中を占めていたのは、私のことでも、嫌気でもなんでもなかったのだ。彼はただ、数分前に道で出会った大きな野良犬に怯えていただけだったの! 犬が大の苦手な彼は、あの大きな犬が追っかけてきたらどうしようと、冷や汗をかきながら窓の外の曲がり角を必死で見張っていただけだったのだから、本当におかしい。
それなのに、私は「私を嫌っている」と決めつけ、彼は「彼女が急に機嫌を損ねて怒っている」と縮み上がり……ふたりの間の空気は、どんどん見えない氷でカチカチに凍りついていった。
「ねえ、もう帰りましょう」 ついに耐えきれなくなった私がトゲトゲしい声で言うと、彼は「そうだね」と短く答えた。
その「そうだね」は、彼にとっては「怒らせてしまったから、早く解放してあげなくちゃ」という精一杯の気遣いだったのに、私には「待ってましたとばかりの冷淡な一言」に聞こえてしまった。
言葉を一言、「どうしたの?」とか、「実はね」とか言いさえすれば、こんな妙ちきりんなすれ違いなんて、お砂糖が紅茶に溶けるみたいにあっけなく消えてしまったはずなのに。
お互いに思いやりという名の、ちょっとお門違いな「遠慮」の服を着込んでしまったものだから、すれ違いはどんどん大きな怪物になって膨らんでいく。
ほんの少しの目線のズレ。ほんの少しの勘違い。 たったそれだけのことで、人間ってどうしてこんなに器用に不幸の迷路へ飛び込んでしまうのかしら。
あの日の冷めた紅茶と、一度も目が合わなかった喫茶店の時間は、今思い出してもちょっぴり甘酸っぱくて、とびきり切ない、ちぐはぐな宝物(ううん、やっぱり困った大失敗!)なのです。
あの喫茶店での「冷めた紅茶事件」から数日後。
ちぐはぐなすれ違いは、あろうことか私たちが勤める会社の、明るいオフィスの真ん中で第二幕を迎えていました。
月曜日の朝、デスクに座った私は、向かいの席の彼——営業部の川村くん——の顔をまともに見ることができませんでした。
あのあと、気まずい気分のまま解散してしまったから。彼はいかめしい顔でパソコンに向かい、キーボードを「パチ、パチ」と叩いています。
『あんなに冷たく「そうだね」なんて言って私を追い返したくせに、会社では何事もなかったみたいに仕事に没頭するなんて。やっぱり私なんて、彼の人生のほんの余白に過ぎなかったんだわ』
私が心のなかで悲劇のヒロインを演じながら書類の整理をしていると、川村くんが突然立ち上がり、私の方へ歩いてきました。
冷ややかな目つき。一文字に結ばれた唇。 彼は私のデスクの上に、すっと一枚の書類を置きました。
「これ、今日の会議の資料。目を通しておいて」
声が、とっても硬い! まるで冷凍庫から出したばかりのフランスパンみたいにカチコチです。
『ほらね! やっぱり怒ってる。私と口をきくのも嫌なんだわ』
私は胸がギュッと苦しくなって、負けじと硬い顔を作ると、視線を合わせずに「わかりました」と冷たく返事をしました。
でもね、本当の本当は——やっぱり今回も、全然ちがっていたのです!
その時、川村くんの頭の中は大パニックの渦の中にありました。 彼はあの日、私を怒らせてしまった(と本気で思い込んでいた)ことにひどくショックを受け、この土日、一眠りもできないまま「どうすれば彼女の機嫌が直るだろう」と悩み抜いていたのです。
徹夜で準備した会議資料を渡す時、彼は「今日こそ誠実な態度を見せなきゃ」と緊張するあまり、顔の筋肉がひきつって恐ろしい表情になっていただけでした。そしてフランスパンみたいな声が出たのは、ただ単に緊張で喉がカラカラに乾いていたから!
それなのに、私の「わかりました」という冷淡な態度を見て、彼の心は完全にポッキリ折れてしまいました。
『ああ、やっぱりダメだ。完全に嫌われてしまった。僕が何をしても、彼女の心には届かないんだ……』
こうして、お互いに相手を気遣い、相手の顔色を伺っているはずなのに、オフィスに流れる空気はどんどん南極大陸みたいに凍りついていきました。
隣の席の先輩が「ねえ、あの二人、何か大きなプロジェクトで対立してるの?」とヒソヒソ噂し始める始末です。本当は、お互いに好きで好きでたまらなくて、傷つけるのが怖くて縮み上がっているだけだというのに!
お昼休み、耐えきれなくなった私は、誰もいない給湯室でひとり溜め息をついていました。
「私、どうして素直になれないのかしら。『あの日はごめんね』って言えばいいだけなのに」
そう呟いてお湯を注ごうとした瞬間、後ろのドアがスルスルと開きました。入ってきたのは、手にマグカップを持った川村くんです。
鉢合わせした私たちは、お互いに「ヒッ」と息を呑んで立ちすくみました。
逃げ出したいような、でも離れたくないような。 ふたりの間に、痛いほどの沈黙が流れます。
その時でした。私の手が滑って、注ごうとしたポットのお湯がトントンとテーブルの上にこぼれてしまったのです。
「熱っ!」
「危ない!」
川村くんが慌てて飛んできて、自分のハンカチでテーブルを拭き始めました。その顔は、冷淡どころか、パニックと心配でぐしゃぐしゃになっていました。
「大丈夫!? 火傷しなかった!? 僕、またドジ踏んで……君を困らせてばかりで、本当にごめん!」
「え……?」
私は目を丸くしました。
「どうして川村くんが謝るの? 怒っていたのは、私を嫌いになったからじゃないの?」
「嫌うなんて滅相もない! 僕、あの喫茶店の日、君に嫌われたと思って……会社でもどう接していいか分からなくて、緊張で顔が固くなってただけなんだ!」
川村くんは真っ赤な顔をして、半泣きになりながら叫びました。
それを見た瞬間、私の中でカチコチに凍っていた氷が、春の太陽を浴びたみたいに一気に溶けていきました。
「じゃあ……あの時の窓の外を見てた怖い顔は?」
「あ、あれは……ものすごく大きな犬が外にいて、追っかけてきたらどうしようって怖くて仕方なかったんだ……」
「プッ……!」
私はたまらず、吹き出してしまいました。 大きな犬に怯えていただけなんて! そしてお互いに「嫌われた」と勝手に思い込んで、会社でこんなにコチコチになっていたなんて!
私の笑い声につられるように、川村くんもぽりぽりと頭をかいて、困ったように笑い始めました。
ほんの一言の言葉。ほんの少しの勇気。 それさえあれば、すれ違いの怪物なんて、シャボン玉みたいにパチンと弾けて消えてしまうものなのです。
給湯室を出ると、午後のオフィスには少しだけ優しい光が差し込んでいました。
「ねえ、今日の帰り、もう一度あの喫茶店に行かない? 今度はあたたかい紅茶を飲みに」
私がそう言うと、彼は今度こそ、世界で一番柔らかい笑顔で「うん!」と頷いてくれたのでした。