不易庵

気儘な旅を楽しもう
 
2017/08/20 10:54:37|その他
軍国の母の血涙
決して戻らない過去の(辛さ)を、きれいに忘却の彼方に葬る事が、希望の明日に繋がると信じてきたのが、僕の処世感だった。
だから、長い間(戦時中)の家族の出来事も封印してきて、その証拠の遺品の在処さえ忘れていたが、ヒョンなはずみに見つけて、今読み直してみると、先述の長兄の戦死を知った時の母の慟哭を、冷静に考えてみてその意を汲み取った。
戦前の我が家は風呂屋を営み、父は燃料の工面や釜焚きや、浴場清掃に汗水を流して働き続けた。あのころは内湯が無く殆どが銭湯の時代だったから繁盛したが、母は番台で気楽な接客で派手な性格が身についていた。
太平洋開戦のラジオ放送は長兄以外の家族が揃い、和やかな丸食卓で聞いたが、やがて戦況が慌しくなるころ、父は燃料調達難や加重労務等から浴場を譲渡し、そのころは日本統治下だった台湾で、可なり盛業な旅館経営の伯父のもとで働き、一旗挙げるべく単身渡航した。そのうち家族を呼んで台湾で本屋をやるって、名前は当時国風の(大政翼賛会)をもじって(ヨクサン堂)にしようって笑っていたが、儚い夢物語だった。
その後戦局慌しく不利になり、数年を経ず父は台湾から最後の引き揚げ船で日本に帰った。久しぶりの対面で、母は人が変わったって驚いていたが、結局仕事の無理が重なっていて、暫らくは母の看護のもと戦時中に病死した。
その知らせを、フィリピンで現地招集中の兄の許に通達し、その報を受けた長兄の手紙が、父の兄つまり伯父の所へ、嘆願の手紙を連綿と送られていた。
(前略〜夢想だにし得なかった此の悲報を南瞑の涯に受け全く悲愁言なかりしは〜長男の身をもって若志親の言に反きて南渡せし我が不幸浅薄深く亡父に詫び居り候〜今は天にも地にも只一人の母と愚弟妹の事〜)等一糸乱れぬ達筆だが、その心中推し量り暫し落涙あふれた。
只今朝日に連載中の佐藤愛子のアッケラカンな家族話に、ついひかされて、お漏らし?した戦中談だが、こうして故人を偲ぶのが(お盆)だろう。僕の身近な友人から、お前は家族皆の寿命を授かっていると言われたが、それが今の僕には最高に嬉しい褒め言葉だ。
(峰過ごす 別れも鷹の 眼かな 芭蕉句)
(左、遺書、中、亡母遺影、右、家族永住の地)





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