不易庵

気儘な旅を楽しもう
 
2019/05/18 17:36:09|その他
親父の夢
超大型連休の「ダンジャリ宣言」が半分成就の巻だった。
然し結局は大半捨てられずに、場所を移動して、ネーム張りをしただけの事だった。モッタイナイ精神が幾歳になっても捨てきれない。育った時代が悪?かったなー。つくずく。
でも、長年月放置の「タイムカプセルの箱」を開くと多数の絵葉書がでてきた。それは、戦時下、台湾在住の父から家族宛ての心籠る絵葉書で、思わずジーンとして眼がしらが熱くなった。
改めて親父の人生を振り返って見ると、米問屋の次男として生を受けたが、祖父が夭折した為伯父が家督相続し、賢明で格別商才にも勝れた人で、家業繁栄を築いた。親父は暫らく脇役として協力しただろうが、結婚後は独立して、異業種の銭湯を経営し、自らは休業なくひたすら汗をかいて、4人の子供を育てたが、折しも戦局が激しくなり、燃料調達等諸般の情勢から銭湯経営に終止符を打ち、当時父の伯父が台湾で大きな旅館を経営し成功していた所に「一旗揚げる」意思で、宿の助っ人として出かけた。当時の台湾は日本統治下で、アジア一帯の植民地支配下からの開放、または侵略?で「大東亜共栄圏」や、或いは「満蒙開拓団」を旗印に、日本から多数の人々が新開拓地に夢の希望に湧いていた。
親父も四六時中風呂釜の前で目放しない労苦の家業に見切りをつけたんだろうか、気楽で?自分の好きな「書店経営」を夢に「翼賛堂」って店名にするんだって、子供心に覚えている。葉書の面々には、母や子供達を気つかう内容ばかりで、是非家族を呼び寄せ、台湾で平穏な暮らしをしたいとおもったんだろうに。
然し、戦争が激しくなり、結局は台湾から逃れる様に、敗戦直前ギリギリ最終船で命からがら本土に帰国した。然しその間の過労が原因で僅か50歳にて逝去の悲哀を受ける事になったが、心中如何ばかり深い遺恨の念だったろうに。
当時長兄は会社から台湾と目と鼻先のフイリピンに赴任し、後刻現地招集後当地で戦死、長女は日赤の看護婦で病院船に勤務、戦後復員船に従事、次兄は海軍兵として呉に配属ご終戦。小生は頼りない中学在学中でした。お国の為に戦った一家はかくて、砂上の楼閣の如く、儚く崩れ去りました
戦争にもたらされた為に、もっともっと悲惨な犠牲者も多数でしょう。救い様のない天災でなく、戦争は人災のもたらす邪悪です。
今回我が家の「パンドラの悲劇の箱」を開けて、底には現在の平和願望の文字が写る様です。此の種のダンジャリはどうか面識の無い孫の手で、あの世に煙で返送して欲しいです。
(稲妻や 海に面を ひらめかす 芭蕉句)
(左、父からの便り、中、台湾の絵葉書、右、コウボネと白糸草)





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